大関増親
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永12年(1635年) |
死没 | 寛文2年4月1日(1662年5月18日)[1] |
改名 | 亀松(幼名)[1]→増親 |
別名 | 右衛門[1] |
戒名 | 正覚院殿伝心宗単大居士/伝心宗単正覚院[1] |
墓所 | 栃木県大田原市の大雄寺 |
官位 | 従五位下・土佐守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
藩 | 下野黒羽藩主 |
氏族 | 大関氏 |
父母 | 父:大関高増、母:分部光信娘[1] |
兄弟 |
増親、増栄、増公、増俊、屋代忠正正室、 村上正尚室、神尾守好室、神谷某室、 浄法寺高政室、金丸資時室、杉原某室 |
妻 | 正室:水野重良娘[1] |
子 | 養子:増栄 |
大関 増親(おおぜき ますちか)は、江戸時代前期の大名。下野国黒羽藩4代藩主。
寛永12年(1635年)、3代藩主・大関高増の嫡男として生まれる。
寛永20年(1643年)7月に江戸幕府3代将軍・徳川家光に御目見する。正保3年(1646年)11月12日、家督を継ぎ、弟の増栄・増君(後に増公)にそれぞれ1000石を分与し[1]、黒羽藩は2万石から1万8000石の藩となった。12月5日、父・高増の遺物である備前兼長を献上している[1]。
承応元年(1652年)12月28日、従五位下・土佐守に叙任する。明暦元年(1655年)に大阪加番となった。寛文元年(1661年)閏8月3日、上野国館林藩主・松平乗久が下総国佐倉藩に移封された際は、織田信久と共に館林城の守備を担っている[2][3]。
寛文2年(1662年)4月1日、江戸藩邸において死去した。享年28。
実子が無く、弟・増栄が養子として跡を継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 水野重良の娘
養子
- 大関増栄 ー 実弟