コンテンツにスキップ

大竹沢治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大竹 澤治
歩兵第38連隊長時代
生誕 1875年5月5日
日本の旗 日本 新潟県
死没

(1923-07-29) 1923年7月29日(48歳没)
日本の旗 日本 東京市四谷区四谷永住町

(現東京都四谷区四谷
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1896年 - 1924年
最終階級 陸軍少将
テンプレートを表示

大竹 澤治(澤治、おおたけ さわじ、1875年明治8年)5月5日[1][2] - 1923年大正12年)7月29日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

[編集]

新潟県出身[1][2][3]。大竹義栄の二男として生れる[1]。私立村上学校を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業し[2]、翌年1月歩兵少尉に任官し歩兵第16連隊付となる[1][4]。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を優等で卒業[1][2][3]。1903年(明治36年)8月、歩兵大尉に昇進し歩兵第16連隊中隊長に就任[1]陸軍省軍務局付、大本営参謀を経て、1904年(明治37年)6月、満州軍参謀に発令され、翌月から同年11月まで日露戦争に出征[1][2]。この間、第4軍参謀、満州軍総司令部付を務めた[1]。1905年(明治38年)1月、大本営付となり、同年3月、第13師団参謀に発令され樺太の戦いに従軍した[1]

1906年(明治39年)1月、軍務局課員(軍事課)となり、以後、ドイツ駐在(軍事研究)[5]近衛歩兵第1連隊付、陸大教官、参謀本部員などを務め、1916年(大正5年)4月、歩兵大佐に進み参謀本部付となる[1][3]。参謀本部課長を経て、1917年(大正6年)8月、歩兵第38連隊長に就任[1][3]。参謀本部課長を経て、1920年(大正9年)8月、陸軍少将に進級し参謀本部付(国際連盟陸軍代表随員)となる[1][2][3]。1922年(大正11年)2月、参謀本部第1部長に転じた[1][2][3]。同年11月、香川県での特別大演習で落馬して脳溢血を発症したが回復し、1923年(大正12年)5月に復帰したが、再び病気が再発し6月に待命となり、翌月1日、予備役に編入され、同月、東京市四谷区四谷永住町(現四谷)の自宅で死去した[1][2][3][5]。墓所は多磨霊園

栄典

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、36-37頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』152頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』128頁。
  4. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』124、128頁。
  5. ^ a b 『大正過去帳』283頁。
  6. ^ 『官報』第2434号「叙任及辞令」1920年9月11日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年
  • 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。