大久保教翅
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和2年(1765年) |
死没 | 寛政8年7月9日(1796年8月11日) |
改名 | 金蔵(幼名)、教翅 |
戒名 | 崇岳光円体全院 |
墓所 | 東京都世田谷区太子堂の教学院 |
官位 | 従五位下、中務少輔、長門守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 駿河国松長藩主→相模国荻野山中藩主 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 |
父:大久保教近、母:松浦到の娘 養父:大久保教倫 |
妻 | 正室:前田利尚の娘(のち離婚) |
子 | 教孝、娘(田中勝豊養女)、娘(中川忠昌室) |
大久保 教翅(おおくぼ のりのぶ)は、駿河松長藩の第5代藩主、のちに相模荻野山中藩の初代藩主。荻野山中藩大久保家5代。
生涯
[編集]松長藩主
[編集]明和2年(1765年)、初代松長藩主・大久保教寛の四男・大久保教平の子で3000石を領した旗本・大久保教近の長男として生まれる。安永2年(1773年)に本家筋にあたる第4代松長藩主・教倫が嗣子無くして死去したため、その養子として家督を継いだ。天明2年(1782年)12月、従五位下、中務少輔に叙任される。天明3年(1783年)10月6日、陣屋を松長から荻野山中に移す(荻野山中陣屋)。荻野山中藩の初代藩主となり、同時に参勤交代義務化の大名となった。
荻野山中藩主
[編集]荻野山中に移った後、苦しい藩財政を再建するため、倹約や知行借上げなどを積極的に行なうが、効果はなかった。ほかにも学問・武芸を奨励している。
寛政8年(1796年)7月9日に死去した。享年32。跡を長男・教孝が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 貞光院 ー 前田利尚の娘(後に離婚)
子女