塩屋秋貞
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 大永元年(1521年) |
死没 | 天正11年3月2日(1583年4月23日) |
戒名 | 光明院殿州金満越大居士 |
官位 | 筑前守 |
主君 | 三木良頼→自綱→上杉謙信→織田信長 |
氏族 | 塩屋氏 |
子 | 監物、三平 |
塩屋 秋貞(しおや あきさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。飛騨国尾崎城主、のち越中国猿倉城主。
略歴[編集]
前半生[編集]
大永元年(1521年)、誕生。大野郡大八賀郷塩屋村の出身という[1][2]。その姓から元は塩の流通を主体とする馬借であったと考えられ、長瀧寺の買地帳に多くの塩屋姓が見られる事から現在の高山市域を中心にかなりの勢力を有する一族を形成していたものと思われる[3]。
秋貞は塩屋村に臼本城を築いて近郷から年貢を取り立てて兵を養うなど勢力を伸ばし、天文の終わり頃には小八賀郷に尾崎城を築いて居城とした[1][2]。
永禄7年(1564年)、武田信玄の部将山県昌景が飛騨に侵攻すると、秋貞は千光寺の衆徒とともに戦うが敗れて古川城に退いた[注 1]。武田軍が撤退した後、秋貞は尾崎城に戻るつもりだったが、三木自綱によって小八賀郷を押領されたため吉城郡塩屋へ居を移した[1]。
永禄12年(1569年)、上杉輝虎(上杉謙信)が2月10日付けで秋貞に宛てた書状には、昨年来音信が途絶えていた三木良頼に対して秋貞に仲介を依頼していることから、秋貞が良頼の重臣であったことが窺われる[3][4]。
上杉家臣時代[編集]
越中では上杉氏に従属していた椎名康胤が一向一揆に呼応して挙兵するなど混乱を極めたことから、輝虎は越中の守備軍として飛騨の諸将を必要とするようになり、秋貞も三木軍の一員として度々越中に派遣されるようになった[注 2]。
元亀2年(1570年)もしくは元亀3年(1571年)4月23日、上杉軍に従軍していた秋貞が突然陣を離脱して猿倉山に立て籠もっているが、飛騨では一向宗の勢力が強かったことから秋貞が一向一揆と戦うことを避けるためであったものと考えられている[3]。
元亀2年(1570年)10月、秋貞は謙信に接近するべく家臣の後藤内膳・和耳藤兵衛を遣わして熊の皮十枚、鉛十斤を献上するが、このときは色よい返事は無かったという。しかし天正元年(1573年)9月、再び後藤を遣わして熊の皮百枚、鉛千斤、真綿三百把を献上した事により、ようやく謙信の意を動かした秋貞は飛騨より打って出て猿倉城に拠った[1]。
天正4年(1576年)8月、謙信による飛騨征伐ではその先鋒となって飛騨に侵攻し、三木自綱・江馬輝盛・内ヶ島氏理を降伏させた。その功により飛騨の目代を務めたとされるが、自綱が拠っていたという松倉城は当時存在しなかったことから信憑性は薄いとされる[1]。
天正6年(1578年)9月5日、江馬氏の持ち城である中知山城を攻撃して城守の河上富信を敗走させ、江馬氏の食邑7万石の統治を任されるが、この頃既に謙信は病死している事から秋貞による越中の統治は困難を極めたらしく[1]、また、謙信の死を契機に織田信長の後ろ盾を得た神保長住が入国するなど織田氏の勢力が強まった事から、程なくして織田方に転向したものと考えられている[3]。
最期[編集]
天正11年(1583年)3月2日、秋貞は城生城主・斎藤信利を攻撃するが、斎藤方の救援に応えた上杉景勝の来援によって敗北した。その後、秋貞は飛騨への敗走を試みるが、国境付近の西猪之谷で上杉方の将・村田修理亮に鉄砲で狙撃され、逃亡先の戸谷村で死去した。享年63[2]。また、子の監物・三平は逃亡して行方知れずとなったが、一説には布谷村の渡辺左五兵衛によって匿われたという[2]。
人物[編集]
- 秋貞が吉城郡に立ち退いた後、尾崎城は間もなく廃城となったが、明治39年(1906年)、尾崎城跡地を整地した際に秋貞が埋めていったと思われる古銭六十余貫匁が出土している。また、自綱が秋貞に借金をした文書が残っている事や、先述の謙信への貢ぎ物などから、秋貞が理財に長けた武将である事が窺われる[1]。
- 飛騨紅かぶの原種となった「八賀かぶ」は、秋貞が持ち込んだものと伝えられている[2]。