コンテンツにスキップ

呂号第百十一潜水艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
計画 昭和17年度計画(マル急計画[1]
起工 1942年8月20日[1]
進水 1943年1月26日[1]
就役 1943年7月19日[1]
その後 1944年6月9日爆雷により沈没[1]
亡失認定 1944年7月12日[1]
除籍 1944年8月10日[1]
性能諸元
排水量 基準:525トン 常備:601トン
水中:782トン
全長 60.90m
全幅 6.00m
吃水 3.51m
機関 艦本式24号6型ディーゼル2基2軸
水上:1,000馬力
水中:760馬力
電池 1号15型120個[2]
速力 水上:14.2kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:12ktで3,500海里
水中:3ktで60海里
燃料 重油:50トン
乗員 38名
兵装 25mm機銃連装1基2挺
魚雷発射管 艦首4門
53cm魚雷8本
備考 安全潜航深度:75m

呂号第百十一潜水艦(ろごうだいひゃくじゅういちせんすいかん)は、日本海軍潜水艦呂百型潜水艦(小型)の12番艦。

艦歴

[編集]

1942年昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画[1]により、1942年8月20日、川崎重工業神戸造船所[3]で起工。1943年(昭和18年)1月26日進水。1943年7月19日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、佐世保鎮守府籍となり[4]、訓練部隊である第一艦隊第11潜水戦隊に編入された。

10月31日、第六艦隊第8潜水戦隊第30潜水隊、南西方面部隊潜水部隊に編入[4][5]

同日、呂111はを出港。11月16日にシンガポールに寄港した後、23日にペナンに到着。12月6日、ペナンを出港し、ベンガル湾に進出。[5]。23日、北緯11度11分 東経80度11分 / 北緯11.183度 東経80.183度 / 11.183; 80.183マドラス南東沖で、スウォンジーからカルカッタに向かっていた12隻の船から編成されたJC30船団を攻撃。150トンの爆薬と1,983トンの一般貨物を輸送中の英貨物船ペシャワー(Peshawar、7,934トン)に魚雷1本が命中。2時間後に同船は沈没した[6][5]。29日、ペナンに到着[5]

1944年(昭和19年)1月7日、呂111はペナンを出港し、セイロン島東方沖に進出。10日、エレファント岬付近に磁気機雷10個を敷設[5]。その後ペナンに戻った。

2月1日、呂111はペナンを出港し、セイロン島周辺海域での機雷敷設任務に従事。23日、ペナンに到着。

3月7日、呂111は魚雷艇第451号魚雷艇、第455号魚雷艇の護衛を受けてペナンを出港。出港後に2隻と別れ、カルカッタ沖に進出。16日、北緯20度54分 東経89度36分 / 北緯20.900度 東経89.600度 / 20.900; 89.600ベンガル湾で、カルカッタからチッタゴンに向かっていたHC44船団を発見し、雷撃。魚雷は印貨物船エルマデマ(Elmadima、3,962トン)に命中し、同船は船体が二つに分断されて沈没した[6][5]。25日、ペナンに到着。同日、第30潜水隊の解隊に伴い、第7潜水戦隊第51潜水隊に編入された。

28日、呂111はペナンを出港し、4月1日に佐世保に到着して整備を受ける[5]

5月22日、呂111は佐世保を出港し、31日にトラックに到着。6月4日、アドミラルティ諸島北方沖に進出するためトラックを出港。6月7日、トラック南方の散開線を航行中との報告を最後に消息不明となる[1]

アメリカ側記録によると、6月11日、アドミラルティ諸島北方沖で米護衛空母ホガット・ベイ(USS Hoggatt Bay, CVE-75)搭載のFM-2 ワイルドキャットが海上に漂う重油の帯を発見[7]。ホガット・ベイを護衛していた米駆逐艦テイラー(USS Taylor, DD-468)が調査に向かう。まもなくテイラーは潜航中の潜水艦をソナー探知。爆雷を投下した。投下後、テイラーは潜水艦を探知しやすくするため停止。1541、先ほどの爆雷攻撃によりたまらず浮上してきた潜水艦を、前方2200mの距離で発見。テイラーは主砲と機銃により攻撃を行い、主砲弾5発、機銃弾多数が命中するのを確認した。1546、潜水艦は艦尾から沈没していった。テイラーは浮かび上がってきた重油の帯の上から爆雷を投下し、1558に2回の大爆発音を聴取した[8][1][5]。これが呂111の最期の瞬間であり、艦長の中村直三大尉以下乗員54名全員戦死[9]。沈没地点はカビエン北方沖、北緯00度26分 東経149度16分 / 北緯0.433度 東経149.267度 / 0.433; 149.267

7月12日、サイパン方面で亡失と認定され、8月10日に除籍された。

撃沈総数は2隻で、撃沈トン数は11,896トンである。

歴代艦長

[編集]

艤装員長

[編集]
  • 不詳

艦長

[編集]
  • 中村直三 大尉:1943年7月19日 - 1944年6月11日戦死[9]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本海軍史』第7巻、378-379頁。
  2. ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』73頁。
  3. ^ 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」18頁。
  4. ^ a b 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』98頁。
  5. ^ a b c d e f g h 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』162頁。
  6. ^ a b RO-111
  7. ^ 木俣, 628ページ
  8. ^ 木俣, 629ページ
  9. ^ a b 『艦長たちの軍艦史』459-460頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』162頁。

参考文献

[編集]
  • 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
  • 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
  • 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年、ISBN 4-8099-0178-5
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9