コンテンツにスキップ

呂号第三十八潜水艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
計画 昭和16年度計画(マル臨計画[1]
起工 1942年6月20日[1]
進水 1942年12月24日[1]
就役 1943年7月24日[1]
その後 1943年11月9日消息不明[2]
亡失認定 1944年1月2日[1]
除籍 1944年4月30日[1]
性能諸元
排水量 基準:960トン 常備:1,109トン
水中:1,447トン
全長 80.50m
全幅 7.05m
吃水 4.07m
機関 艦本式22号10型ディーゼル2基
電動機、2軸
水上:4,200馬力
水中:1,200馬力
電池 1号15型240コ[3]
速力 水上:19.8kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:16ktで5,000海里 
水中:5ktで45海里
燃料 重油
乗員 61名
兵装 40口径8cm高角砲1門
25mm機銃連装1基2挺
53cm魚雷発射管 艦首4門
魚雷10本
備考 安全潜航深度:80m

呂号第三十八潜水艦(ろごうだいさんじゅうはちせんすいかん)は、日本海軍潜水艦呂三十五型潜水艦(中型)の4番艦。

艦歴

[編集]

1941年昭和16年)の昭和16年度計画(マル臨計画[1]により、1942年(昭和17年)6月20日、三菱重工業神戸造船所で起工。1942年12月24日進水。1943年(昭和18年)7月24日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、舞鶴鎮守府籍となり[4]、訓練部隊である第一艦隊第11潜水戦隊に編入された。

10月31日[注釈 1]第六艦隊第34潜水隊に編入[4]

同日、呂38は呉を出港し、11月8日に、トラックに到着[4][5]。19日、甲潜水部隊に編入され、マキンタラワ方面へ向かうべくトラックを出港していくのを最後に消息不明[4][5]

アメリカ側にも記録はなく[注釈 2]、艦長の野村俊治少佐以下乗員77名全員行方不明(戦死認定)[2]

1944年(昭和19年)1月2日、ギルバート諸島方面で亡失と認定され、4月30日に除籍された。

歴代艦長

[編集]

艤装員長

[編集]
  • 不詳

艦長

[編集]
  • 野村俊治 少佐:1943年7月24日 - 1944年1月2日戦死認定[2]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』153頁では「7月31日」とあるが、訓練期間がわずか1週間と他の姉妹艦と比べて短すぎることから疑問が残る。
  2. ^ 『日本潜水艦戦史』によると、11月24日、タラワ西方44浬地点付近で米駆逐艦コットン英語版(USS Cotten, DD-669)の攻撃により沈没。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 『日本海軍史』第7巻、373頁。
  2. ^ a b c 『艦長たちの軍艦史』450頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』153頁。
  3. ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』72頁。
  4. ^ a b c d 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』95頁。
  5. ^ a b 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』153頁。

参考文献

[編集]
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
  • 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
  • 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
  • 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年、ISBN 4-8099-0178-5
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9