吉見元頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉見元頼
時代 安土桃山時代
生誕 天正3年(1575年
死没 文禄3年6月4日1594年7月21日
別名 次郎、次郎兵衛尉(通称)
戒名 舜庭寺殿巨柏庭公大居士
墓所 島根県鹿足郡津和野町後田の永明寺
主君 毛利輝元
氏族 清和源氏為義吉見氏
父母 吉見広頼、河原殿(内藤隆春の娘)
兄弟 矢野局、元頼広長、ほか
雪岩秀梅吉川元春の娘)
テンプレートを表示

吉見 元頼(よしみ もとより)は、安土桃山時代武将毛利氏の家臣。

生涯[編集]

天正3年(1575年)、石見国鹿足郡津和野[1]三本松城を本拠とした国人吉見広頼の嫡男として誕生。吉川元春の娘(吉川広家の妹)を正室とした。

天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では病の父・広頼に代わり、元頼が出陣。元頼は出陣にあたって、重臣の下瀬頼直に命じて陣中日記を記させており[2]、この陣中日記によって吉見軍の動向が窺える。

元頼らは3月8日津和野を出陣し、長門国阿武郡指月城周防国吉敷郡山口を通って関門海峡を渡り、4月13日肥前国名護屋に到着。姉・矢野局の夫である毛利元康の部隊に属して4月18日呼子浦を出港し、壱岐国対馬国を経て、5月3日釜山に上陸した。

上陸以降、朝鮮半島各地を転戦し、文禄2年(1593年1月26日碧蹄館の戦いでは追撃戦で活躍し、自ら首一つを挙げ、吉見氏家臣らも40余りの首級を挙げた。これに対し、輝元は同年6月3日付で元頼の武功を賞する書状を送っている。また、『吉見家譜』では元頼の碧蹄館での武功について「勲功抜群也」と記している。

同年3月8日漢城に在陣中の元頼のもとへ、津和野から吉見氏家臣の野村善三郎波多野弥左衛門らが到着し、前年の文禄元年(1592年11月18日に元頼正室が死去したと報じた。下瀬頼直は陣中日記において、元頼が訃報を受けた際の様子を「公私仰天し、殊の外泣涕こがれ、御嘆きの事限りなし。雨少し降り候」と記している。元頼は正室の追善として、家臣5人と共に「南無阿弥陀仏」の6字(なむあみたふ)をそれぞれ文頭に用いたを詠み、元頼は「あ」を用いて「あわれたゝ 消にしあとの おもひ草 涙の袖を いつかはれまし」と詠んだ[3]。4月にはとの講和交渉が始まったことで毛利軍にも帰国命令が出され、下瀬頼直の陣中日記の記述も、4月7日漢城で釜山への退陣命令を受けた記述をもって終了している。

その後、翌年の文禄3年(1594年)5月中旬に津和野へ帰還したが、元頼は長きに渡る出陣によって体調を崩していた。そこで、同年5月25日に元頼の養生のために三本松城で猿楽能の興行が催され、元頼は見物を楽しんでいたが、見物半ばで病状が悪化し、6月4日に死去した。享年20。津和野の永明寺に葬られたが、現在は墓の所在が不明となっているという。

吉見氏の家督は弟・広行(後の広長)が継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ 現在の島根県鹿足郡津和野町
  2. ^ 『朝鮮陣留書』(毛利文庫本、山口県文書館蔵)『吉見元頼朝鮮日記』(吉川家蔵)、『朝鮮渡海日記』(山口県文書館)、『吉見家朝鮮日記』(故徳富蘇峰蔵、『近世日本国民史』収載)などと題した写本が伝わっている。
  3. ^ 他の歌は以下の通り。「なへて世に さることはりの ゆきと花 ちらすは春の なけきをはせん」(宗七)、「むらさきの 雲の上まて うかひしを さきたちぬると 見るそはかなき」(六太夫)、「見渡せば 花はちりつゝ 春風に つれなく残る 身こそつらけれ」(理介)、「たゝひとり 若木の花の いたつらに 夢をなりしを 聞そはなき」(久内)、「ふたかたに ひき別れつる 去年の春を ながきわかれと 今そしらるゝ」(寺助右)。

参考文献[編集]