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吉原矩

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吉原 矩(よしはら かね、1893年明治26年)10月27日[1][2] - 1984年昭和59年)8月8日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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茨城県出身[1][2][3]。吉原文平の二男として生まれる[1]。栃木県立真岡中学校(現栃木県立真岡高等学校)、仙台陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業[1][2][4]。同年12月、工兵少尉に任官し鉄道連隊付となる[1][4]。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を卒業[1]。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し鉄道第1連隊中隊長に就任[1][2][3]

1925年(大正14年)1月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員、工兵監部員、陸大教官、陸軍省整備局課員、軍務局課員(兵務課)などを務め、1934年(昭和9年)8月、工兵中佐に昇進[1]。1935年(昭和10年)3月、第4師団参謀に就任し、工兵監部員を経て、1937年(昭和12年)9月、第13師団参謀に転じ日中戦争に出征[1][2][3]。同年11月、工兵大佐に進んだ[1][3]。1938年(昭和13年)3月、第13師団参謀長、同年12月、北支那方面軍参謀となり、1939年(昭和14年)9月、工兵監部員に転じ帰国した[1][3]

1940年(昭和15年)12月、陸軍少将に昇進し工兵監部付となる[1][2][3]。1941年(昭和16年)11月、第1工兵隊司令官に発令され満州に赴任[1][2][3]第2方面軍参謀長を経て、1942年(昭和17年)11月、第18軍参謀長に発令されニューギニアの戦いに参戦[1][2][3]。1944年(昭和19年)3月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。自活体制を構築して終戦を迎えた[2]。1946年(昭和21年)2月に復員した[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。1948年(昭和23年)1月、BC級戦犯容疑で逮捕され、1950年(昭和25年)3月に釈放された[1]

著作

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  • 『日本陸軍工兵史』九段社、1958年。
  • 『工兵の歩み』工兵会、1981年。
  • 『南十字星 : 東部ニューギニア戦の追憶』南十字星刊行会、1982年。
共著
  • 『日本工兵物語』原書房、1980年。
  • 『燦たり鉄道兵の記録:極光より南十字星』全鉄会本部、1965年。
共編
  • 森肇『鉄道兵須知』丸兵書店、1922年。

伝記

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  • 『吉原矩将軍追憶記』1984年[1]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『日本陸海軍総合事典』第2版、171頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』798-799頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』371頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』369、371頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。