原田義和
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原田 義和(はらだ よしかず、1895年(明治28年)8月1日 - 1973年(昭和48年)6月10日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
来歴・人物
[編集]福岡県甘木市(現・朝倉市)平塚出身。福岡県立中学修猷館を中退し、1916年(大正5年)5月陸軍士官学校第28期卒業。1924年(大正13年)11月陸軍大学校第36期卒業[1]。
1936年(昭和11年)8月関東軍参謀となり、1938年(昭和13年)3月大佐に累進、同月支那駐屯兵団参謀長、同年7月第27師団参謀長(第11軍)として支那事変(日中戦争)に出動。1939年(昭和14年)8月歩兵第39連隊長、1940年(昭和15年)11月大本営参謀、1941年(昭和16年)7月奉天特務機関長[1][2]。
同年8月少将に進み、同年11月第16軍参謀副長(南方軍)となり、太平洋戦争に出征しジャワ攻略を完遂している。1942年(昭和17年)8月第22歩兵団長(支那派遣軍、第13軍、第22師団)として杭州に駐屯。1943年(昭和18年)11月南洋第2支隊長[2]となり、1945年(昭和20年)3月陸軍中将に進み、クサイ島で終戦を迎える[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[3]。
親族
[編集]妻妙子は陸軍中将・佐多武彦の娘。義弟に海軍大佐・佐多直大、新日本製鐵専務取締役・有田通元、海軍大佐・藤田正路、陸軍中佐・姫田虎之助。
参考文献
[編集]- 佐多大佐回想録刊行会『佐多大佐を偲ぶ 海軍攻撃機とともに』
- 佐多武彦著『回顧六十年』