北条貞房
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北条 貞房(ほうじょう さだふさ[1]、文永9年(1272年)[1] - 延慶2年12月2日(1310年1月3日)[1])は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。通称は大仏(おさらぎ)貞房。
生涯・人物
[編集]父は大仏流の北条宣時[1][2]。元服時に得宗家当主・北条貞時より偏諱を受けて貞房と名乗る[3][注釈 1]。
当初は、引付衆や評定衆を歴任した。官位も、正応2年(1289年)12月29日には式部大丞[1]、同3年(1290年)3月7日には従五位下[1][5](同年8月23日に引付衆[1])、永仁3年(1295年)12月29日には刑部少輔[1]、嘉元4年(1306年、のち徳治に改元)7月19日には越前守[1][5]、(徳治2年(1307年)12月13日に評定衆[1]、)徳治3年(1308年)2月7日には従五位上[1][5]となり、昇進を重ねた。
その後、延慶元年(1308年)11月20日[6]から六波羅探題南方として上洛・赴任している[1][5]。延慶2年(1309年)12月2日、京都にて38歳で死去[1][5]。
歌人として優れ、『玉葉和歌集』や『続千載和歌集』には多数の作品が修められている[1][5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 奥富敬之 著「北条貞房」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、539頁。
- ^ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その77-大仏貞房(細川重男のブログ記事)より。典拠は『武家年代記』延慶元年(1309年)条、『関東開闢皇代幷年代記事』、『前田本平氏系図』、『正宗寺本北条系図』。その他、『尊卑分脈』の北条系図と『佐野本北条系図』では兄である宗宣を父(すなわち維貞と兄弟)としているが、生没年を踏まえると宗宣14歳の時の子供となり、細川重男はこれを不自然として否定する見解を述べられている。
- ^ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その77-大仏貞房(細川重男のブログ記事)より。
- ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年、p.15系図・P.21。
- ^ a b c d e f 『尊卑分脈』
- ^ 『尊卑分脈』では11月26日。