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北条時村 (時房流)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
北条時村
時代 鎌倉時代前期
生誕 不詳[注釈 1](異説として1205年[注釈 2]
死没 嘉禄元年12月2日[2]1226年1月1日
改名 時村→行念(法名)[2]→行如(法名)?
別名 佐介時村
二郎、相模二郎[2]、相模次郎入道、五郎
幕府 鎌倉幕府
主君 源実朝藤原頼経
氏族 北条氏佐介流時村系
父母 父:北条時房[2]、母:足立遠元の娘?[2]
兄弟 時盛時村資時朝直時直時定持定房快忠源、女子(一条頼氏室)、女子(北条朝時室)、女子(安達義景室)
時隆時広忠源、娘(藤原実直室のち藤原公直室)
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北条 時村(ほうじょう ときむら)は、鎌倉時代前期の武将北条氏の一門。

生涯

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鎌倉幕府の初代執権北条時政の子で初代の連署である北条時房の次男。六波羅探題南方の北条時盛の弟。

建保6年(1218年4月14日、父と共に後鳥羽上皇蹴鞠の会に列した[2]承久2年(1220年1月14日、弟の資時と共に突如として出家した[2]。この理由は明確には分かっていないが、兄弟間の家督争いに敗れたとする説(最終的に弟の朝直が嫡子となっている)や、前年に将軍源実朝公暁に殺害されたことから仏門に入る決心を固めたためとする説[注釈 2]などが唱えられている。出家後は行念(ぎょうねん)と称した[2]。嘉禄元年(1225年)12月2日に死去[2](享年は27~29歳ほど[注釈 1])。

出家後、上京して親鸞に仕えたが、親鸞が亡くなると続いて如信(本願寺第二世)、覚如(本願寺第三世)にも仕え、のちに覚如から「如」の1字を与えられて改名し、興宗寺 (福井市)の開祖である行如正安2年(1300年5月16日没)になったとの異説もあり[注釈 2]、興宗寺の住職は現在に至るまで北條を名乗っている。

歌人としての才能が深く、『玉葉和歌集』『新勅撰和歌集』『新後撰和歌集』『続古今和歌集』『続拾遺和歌集』などに時村の詠歌が収められている[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 長兄の時盛の生誕年が建久8年(1197年[1]、すぐ下の弟・資時の生誕年が正治元年(1199年)であるため、この間に生まれており、30歳手前で死去したのは明らかである。
  2. ^ a b c 興宗寺の歴史(外部リンク、典拠は「元治由緒書」・「文政由緒書」)より。両由緒書や「西光寺古記」によれば行如は正安2年(1300年)5月16日に死去したとされるが、「反古裏書」など複数の文書には応長元年(1311年)に行如が越前に下向した覚如に帰依したことが記載されており矛盾している。また生誕年を踏まえれば、100歳ほど生きたことになってしまうため、両由緒書の記述には明らかな間違いや疑問点が多く、行如と混同した可能性もある。

出典

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  1. ^ 安田 1990, p. 547, 豊永聡美「北条時盛」.
  2. ^ a b c d e f g h i j 安田 1990, p. 547, 奥富敬之「北条時村」

参考文献

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