前田幸作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

前田 幸作(まえだ こうさく、1895年明治28年)4月28日[1] - 1987年昭和62年)9月19日[2][3])は、昭和期の実業家映画興行主、政治家衆議院議員。旧名・幸三郎[4]

経歴[編集]

京都府[2][5][注 1]紀伊郡深草村(深草町[6]を経て現京都市伏見区深草)出身。神戸高等商業学校(のち神戸商業大学)で学んだ[7][注 2]

京都市寺田キネマ (株)に入社し[3]、第二京極支配人を務めた[6]。その後、東亜キネマに移り、その経営となった福岡市映画館東亜倶楽部(前名・抜天〔バッテン〕館)支配人として1927年(昭和2年)3月に赴任した[6][8]。昼・夜入替制を連続興行に変更し、低料金制の導入、ポスターの全廃、無料入場券の配布、割引券の飛行機による散布などの奇抜な宣伝を行い話題となった[9]。1928年(昭和3年)8月、経営不振のハカタ館(前名・喜楽館)を東亜倶楽部の姉妹館として経営に乗り出し、館名を新聞広告で募集して「民衆倶楽部」に改名した[10]。しかしこの経営で東亜キネマとの係争が起こり、1930年(昭和5年)12月、休館していた本興座を元の世界館に改称して経営に当たった[11]

政界にも関心を持ち、1930年(昭和5年)2月の第17回衆議院議員総選挙で福岡県第1区から出馬(幸三郎名義)したが落選[12][13]。1931年(昭和6年)福岡県会議員に選出[2][5]。1933年(昭和8年)4月、福岡市会議員に当選[12]東邦電力への電灯料金値下げ運動、小売業者保護のための百貨店規制強化の主張を行った[8][12]。1936年(昭和11年)2月の第19回総選挙に出馬(幸作名義)して当選し[3][12][14]、衆議院議員に1期在任した[3]。1937年(昭和12年)4月の第20回総選挙に立候補したが次点で落選した[12][15]

戦後も福岡市議会議員に4期在任し、爆弾質問男と称された[2]。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙福岡県第1区から無所属で立候補したが落選した[16]

晩年は公衆浴場を経営し、全国公衆浴場環境衛生同業組合連合会副理事長などを務めた[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』582頁では福岡県出身。
  2. ^ 『ふるさと人物記』9頁では早稲田大学卒業。

出典[編集]

  1. ^ 衆議院『第六十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1936年、28頁。
  2. ^ a b c d e 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』559頁。
  3. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』582頁。
  4. ^ 『博多中州ものがたり後編』259頁。
  5. ^ a b 『ふるさと人物記』9頁。
  6. ^ a b c 『博多中州ものがたり後編』251頁。
  7. ^ 『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』福岡39頁。
  8. ^ a b 『福博の人物 第1輯』61頁。
  9. ^ 『博多中州ものがたり後編』251-254頁。
  10. ^ 『博多中州ものがたり後編』254-255頁。
  11. ^ 『博多中州ものがたり後編』255-257頁。
  12. ^ a b c d e 『博多中州ものがたり後編』258-259頁。
  13. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第17回』529頁。
  14. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第19回』537頁。
  15. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第20回』529頁。
  16. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』350頁。

参考文献[編集]

  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第17回』衆議院事務局、1930年。
  • 隈部紫明、山下博共著『福博の人物 第1輯』福岡出版協会、1935年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第19回』衆議院事務局、1936年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第20回』衆議院事務局、1937年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社ほか、1938年。
  • ふるさと人物記刊行会編『ふるさと人物記』夕刊フクニチ新聞社、1956年。
  • 咲山恭三『博多中州ものがたり後編 (大正改元より空襲・終戦までの変遷)』文献出版、1980年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。