元坦

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元 坦(げん たん、生没年不詳)は、北魏東魏皇族。またの名は穆。は延和[1]献文帝の孫。

経歴[編集]

咸陽王元禧の七男として生まれた。若い頃から飲酒して酔っては洛橋を通行する人を辱めたので、従叔父の安豊王元延明に説教され、南朝宋の東海王劉禕に似ていると評され、驢王と称された[2][3][1]景明2年(501年)、元禧が殺された後、彭城王元勰に養われた。兄の元翼・元樹ら5人が南朝梁に逃れたため、父の後を嗣いで咸陽王に封じられ、まもなく敷城王に改封された[3][1]建義元年(528年)4月、再び咸陽王に封じられた[4][5]侍中衛将軍に累進した。普泰元年(531年)3月、儀同三司の位を受けた[6]

太昌元年(532年)7月、兄の元樹が捕らえられた[7][8]。元坦は元樹が年長でかつ賢明であったので、取って代わられるのを恐れて、ひそかに朝廷に勧めて兄を除かせたのであった。元樹はこれを知って、泣いて元坦を責め、元坦は憮然として去った。元樹が死んでも、元坦は哭礼に臨むことはなかった[3][9]永熙2年(533年)2月、司空に上った[10][11]天平元年(534年)10月、太尉に転じた[12][13]。天平2年(535年)2月、太傅に上った[14][15]。天平3年(536年)12月、太師に転じた[16][17]。天平4年(537年)10月、録尚書事を加えられた[18][19]。のちに宗正・司州牧を加えられた。高位に上って封禄も厚かったが、財産あさりには貪欲で、売獄売官に励んだ[20][21]武定2年(544年)9月[22][23]御史に弾劾されて免官され、王のまま帰宅させられた。まもなく特進として再起し、冀州刺史として出向し、再び収奪をもっぱらにした。正規の百姓の税金の外に、絹5疋を取り立てて、受け取っていた。また狩猟や漁撈を好み、秋冬は雉や兎を狩り、春夏は魚や蟹を捕らえて、出かけない日はなく、鷹や犬は数百頭を常備していた。三日食わないことはできるが、一日として猟をしないことはできないと放言していた[20][21]。武定7年(549年)10月、再び太傅となった[24][25]天保元年(550年)、北斉が建国されると、元坦は爵位を降格されて新豊県公に封じられ、特進・開府儀同三司に任じられた。天保2年(551年)1月[26]、子の元世宝と通直散騎侍郎の彭貴平が酒に酔って誹謗をなし、怪しげな図讖を説いた事件に連座し、死罪に当たると上奏されたが、詔により一命を許された。北営州に流され、のちに配所で没した[20][21]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 北史 1974, p. 693.
  2. ^ 魏書 1974, p. 541.
  3. ^ a b c 北斉書 1972, p. 383.
  4. ^ 魏書 1974, p. 257.
  5. ^ 北史 1974, p. 162.
  6. ^ 魏書 1974, p. 275.
  7. ^ 魏書 1974, p. 285.
  8. ^ 北史 1974, p. 171.
  9. ^ 北史 1974, pp. 693–694.
  10. ^ 魏書 1974, p. 287.
  11. ^ 北史 1974, p. 172.
  12. ^ 魏書 1974, p. 297.
  13. ^ 北史 1974, p. 184.
  14. ^ 魏書 1974, p. 298.
  15. ^ 北史 1974, p. 185.
  16. ^ 魏書 1974, p. 300.
  17. ^ 北史 1974, p. 186.
  18. ^ 魏書 1974, p. 301.
  19. ^ 北史 1974, p. 187.
  20. ^ a b c 北斉書 1972, p. 384.
  21. ^ a b c 北史 1974, p. 694.
  22. ^ 魏書 1974, p. 307.
  23. ^ 北史 1974, p. 192.
  24. ^ 魏書 1974, p. 312.
  25. ^ 北史 1974, p. 195.
  26. ^ 北斉書 1972, p. 54.

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4