元樹

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元 樹(げん じゅ、485年 - 532年)は、北魏皇族献文帝の孫。南朝梁に亡命した。は秀和、または君立。

経歴[編集]

咸陽王元禧の子として生まれた。美貌と将才で知られた。宗正卿となった。父の死後、兄の元翼や元昌らとともに梁に亡命した。武帝に気に入られ、魏郡王に封ぜられた。後に鄴王に改封された。揚州が梁に降ったとき、梁の将軍の湛僧珍が揚州の兵の変心を憂慮して、全て殺そうとした。元樹のはからいで、揚州の兵は北魏に帰ることができた。普通6年(525年)、元樹は南朝梁の使持節・都督郢司霍三州諸軍事・雲麾将軍・郢州刺史となった。南方の辺境の乱の討伐に活躍し、安西将軍となった。

大通2年(528年)、爾朱栄河陰の変で北魏の官僚たちを殺害したことを聞くと、元樹は爾朱栄を討伐するよう武帝に請願した。武帝は元樹に兵馬を率いさせて北魏に侵攻させた。中大通2年(530年)、元樹は侍中・鎮右将軍となった。中大通4年(532年)、鎮北将軍・都督北討諸軍事となり、北魏の譙城を落とした。北魏の樊子鵠・杜徳らが攻撃してきたため、元樹は城を堅く守って撃退した。樊子鵠が金紫光禄大夫の張安期を派遣して交渉し、元樹が譙城を放棄して南に帰ることで話がまとまった。元樹は誓約を信じて、戦いの備えをしていなかった。そこに杜徳の襲撃を受け、捕らえられて洛陽に送られた。永寧仏寺(『北史』では景明寺)に拘禁され、まもなく死を賜った。

子の元貞が東魏孝静帝を頼って、におもむき、元樹の埋葬を求めて許された。元樹に侍中・都督青徐兗揚豫五州諸軍事・太師司徒公・尚書令・揚州刺史の位が追贈された。元貞は父を埋葬すると、江南に帰り太子舎人となった。侯景の乱のとき、元貞は咸陽王となった。

伝記資料[編集]

  • 魏書』巻21上 列伝第9上
  • 『北史』巻19 列伝第7
  • 梁書』巻39 列伝第33