倉田葛三
倉田 葛三(くらた かっさん、宝暦12年(1762年) - 文政元年6月12日(1818年7月14日))は江戸時代後期の俳人。諱は覃。通称は久右衛門。別号に騎鯨、黙斎、秋暮亭など。
地元信州で宮本虎杖、江戸で加舎白雄に師事した。白雄創立の春秋庵、相模大磯宿の名門鴫立庵、松代の虎杖庵主を兼任し、信州や関東地方を精力的に行き来し、東北地方や九州へも遊んだ。
生涯
[編集]宝暦12年(1762年)、信濃国埴科郡松代城下荒町(長野県長野市松代町東条字荒町)の塩入家に生まれる。鼠屋と号する豪商だったとも、松代藩士だったともいう。姉と妹が一人ずついた。僧門を志望し東条村の観喜寺に入った。ある日、師に加持祈祷の利益を問うたところ、方便と答えられ、それ以上の説明がなかったため、還俗を決意した。
千曲川を下った戸倉村(千曲市戸倉)の宮本虎杖に入門し、天明7年(1787年)春、虎杖編『天明七未年 虎杖庵草稿』弐巻に騎鯨として七句初入句した。寛政2年(1790年)中、 江戸に出て、春秋庵加舎白雄に執筆として師事したが、白雄は寛政3年(1791年)死去し、常世田長翠が春秋庵二世となった。寛政4年(1792年)11月、長翠に独立を許され、寛政6年(1794年)春、長翠を継いで三世春秋庵主となった。同年東北地方を巡った。
11月18日、相模国大磯宿鴫立庵主三浦柴居が病死したため、これも継いで八世鴫立庵主に就任した。寛政10年(1798年)春、春秋庵を年々庵帰童に譲った。
文化6年(1809年)、京、大坂、広島、小倉を経て長崎まで旅をし、『筑紫みやげ』を著した。文化8年(1811年)其堂(帰童)が春秋庵を放棄したため、この頃春秋庵主に再任したと思われる。文化9年(1812年)5月初旬、国元の師の要請により虎杖庵主にも就任した。
文政元年(1818年)6月10日、辞世「六月や十日暮らせし一手柄」「身の上の夏や蓮の一枚葉」を詠み、12日死去した。法号は一阿葛三居士。大磯地福寺にて葬儀が行われた。墓碑は円覚寺誠拙周樗の揮毫で鴫立庵に建てられた。
死後、松代城外新田村(千曲市新田)伊勢社に辞世「六月や十日くらせし一手柄」、松島瑞巌寺に「松風はたねんのはしよ子雋」の句碑が建てられた。文政2年(1819年)11月、門下遠藤雉啄により『葛三句集』が刊行された。
明治24年(1891年)4月24日、松代は大火に見舞われ、生家、遺品が焼失した。
昭和22年(1947年)8月、地元松代の俳人清水瓢左により葛三顕彰会が設立され、11月12日松代城巽櫓跡に「月夜よし行/\あてはなかりけり」の句碑が建てられた。昭和42年(1967年)11月には同会より『葛三全集』が刊行された。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 矢羽勝幸「俳人倉田葛三年譜―春秋庵・鴫立庵時代を中心として―」『二松學舍大学論集』第50号、2007年
- 矢羽勝幸「俳人倉田葛三年譜―虎杖庵時代以後を中心として―」『二松学舎大学東アジア学術総合研究所集刊』第37集、2007年