侯莫陳相
侯莫陳 相(こうばくちん そう、489年 - 571年)は、中国の北魏末から北斉にかけての軍人。本貫は代郡[1][2]。
経歴
[編集]朔州刺史・白水郡公の侯莫陳斛古提の子として生まれた[1][2]。7歳のとき、父を喪った。普泰元年(531年)、高歓が反爾朱氏の兵を起こすと、侯莫陳相はこれに従った。中興2年(532年)、高歓の下で韓陵に爾朱氏を破ると、功績により陽平県伯に封じられた。後に白水郡公に改封された。大行台・節度西道諸軍事をつとめた。また車騎将軍・顕州刺史に転じた。入朝して太僕卿に任じられた。ほどなく汾州刺史として出向した。安次県男の別封を受け、また始平県公の別封を受けた[1][3]。
天保元年(550年)、北斉が建国されると、侯莫陳相は太子太師となった[1][3]。天保5年(554年)8月、司空に上った[4][5][6]。天保7年(556年)1月、爵位を白水郡王に進めた[7]。天保10年(559年)1月、大将軍に転じた[8][9][10]。のちに太尉公となり、瀛州刺史を兼ねた[3]。天統元年(565年)4月、太保[11][12][13]に上り、朔州刺史[3]を兼ねた。天統2年(566年)10月、太傅に転じた[14][15][16]。天統3年(567年)8月、太宰に転じた[17][18][19]。建州を食邑とし、義寧郡公の別封を受けた。武平2年(571年)4月、朔州で死去した。享年は83。仮黄鉞・使持節・都督冀定瀛滄済趙幽并朔恒十州諸軍事・右丞相・太宰・太尉公・朔州刺史の位を追贈された[1][3]。
子に侯莫陳貴楽・侯莫陳晋貴がいた。侯莫陳貴楽は公主をめとり、駙馬都尉となった。侯莫陳晋貴は、白水王の爵位を嗣ぎ、北斉の武衆将軍・梁州刺史となったが、并州が陥落すると北周に降り、上大将軍・信安県公となった[1][3]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 北斉書 1972, p. 259.
- ^ a b 北史 1974, p. 1910.
- ^ a b c d e f 北史 1974, p. 1911.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 87.
- ^ 北斉書 1972, p. 59.
- ^ 北史 1974, p. 251.
- ^ 北史 1974, p. 253.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 97.
- ^ 北斉書 1972, p. 66.
- ^ 北史 1974, p. 256.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 124.
- ^ 北斉書 1972, p. 97.
- ^ 北史 1974, p. 287.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 125.
- ^ 北斉書 1972, p. 99.
- ^ 北史 1974, p. 288.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 127.
- ^ 北斉書 1972, p. 100.
- ^ 北史 1974, p. 289.
伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。