久川藤太郎
くがわ とうたろう 久川藤太郎 | |
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生年月日 | 1858年5月16日 |
没年月日 | 1938年7月21日(80歳没) |
出身地 | 日本・上野国勢多郡上増田村 |
久川 藤太郎(くがわ とうたろう、安政5年4月4日(1858年5月16日) - 昭和13年(1938年)7月21日)は、稲荷藤節をあみだした人物。
人物[編集]
上野国勢多郡上増田村(現群馬県前橋市上増田町)で生まれた藤太郎は、生まれつき美声の持ち主であった[1]。若い頃から盆踊り唄を近くの村で歌い歩き、評判となっていた。その後、七七調の口説節を自ら編み出した。
藤太郎の屋敷には稲荷が祀ってあり、村人は彼のことを「稲荷の藤さん」と呼び、彼の生み出した盆踊り唄とあってか、いつの間にか稲荷藤節と呼ばれるようになった。
一番弟子に荒口町の田村利忠太がおり、2代目を泉沢町の小沼徳三郎が継ぐ。
稲荷藤節[編集]
この盆踊り唄は明治初期から勢多郡、佐波郡、前橋などで利根川を運行する船頭などの間で広く唄われた。稲荷藤節を歌い出すときは「私しや増田の稲荷藤が弟子で」と言う。
この歌も大正中頃、八木節の流行に押され、衰退の一途をたどるに至った。しかし、1973年(昭和48年)に前橋土芸能大会に参加出場し、青年や婦人会の人々によって披露され高く評価を得て、現在も盛んに行われている。
出典[編集]
- ^ 前橋市教育委員会-全国遺跡報告総覧より引用
- 木瀬村誌
- 前橋市教育委員会-前橋市民俗文化財調査報告書第三編