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上西門院兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
待賢門院が中興し後に上西門院も住した法金剛院

上西門院兵衛(じょうさいもんいんのひょうえ、生年不詳 - 寿永2–3年頃(118384年頃)は、平安時代後期の女流歌人。父は村上源氏神祇伯源顕仲待賢門院兵衛(たいけんもんいんのひょうえ)、前斎院兵衛(さきのさいいんのひょうえ)、右兵衛督(うひょうえのかみ)などともいった。

姉妹には、いずれも勅選歌人である待賢門院堀河大夫典侍[注 1]散位重通妾[注 2]がいる。

姉の堀河と共に鳥羽院中宮だった待賢門院(藤原璋子)に出仕、後にその皇女で斎院を退いた後の上西門院(統子内親王)に出仕した。1160年(永暦元年)上西門院の落飾に従い出家している。藤原実家藤原惟方西行など歌人との幅広い交流があった[1]。『金葉和歌集』以降の勅撰集、『久安百首』、西行の『山家集』などに作品を残している[1]

逸話

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  • 堀河との姉妹連歌[2]が記録されている。

  油綿をさし油にしたりけるがいと香しく匂ひければ
ともし火は たき物にこそ 似たりけれ 上西門院兵衛
丁子かしらの 香や匂ふらん      待賢門院堀河

— 『菟玖波集』 下
  • 西行『聞書集』の、戦乱で武士が数多く死ぬことに触れた続きに、兵衛の句に西行が上句を付けている箇所がある[3]

  上西門院にて わかき殿上の人々 兵衛の局にあひ申して
  武者のことにまぎれて歌おもひいづる人なしとて
  月のころ 歌よみ 連歌つづけなんどせられけるに
  武者のこといで来たりけるつづきの連歌に
いくさを照らす ゆみはりの月
  伊勢に人のまうで来て
  かかる連歌こそ 兵衛殿の局せられたりしか
  いひすさみて つくる人なかりき
  と語りけるを聞きて
こころきる てなる氷の かげのみか

— 『聞書集』
だが戦乱の中、兵衛の死を聞いて、

  兵衛の局 武者のをりふしうせられにけり
  契りたまひしことありしものをと あはれにおぼえて
さきだたばしるべせよとぞ契りしに おくれて思ふあとのあはれさ
  仏舎利おはします
  我さきだたば迎へ奉れ
  とちぎられけり
亡き跡のおもきかたみにわかちおきし 名残のすゑを又つたへけり

— 『聞書集』
どのような経緯で兵衛が仏舎利を伝えていたのかはわからないが、それを形見にすると約束していた程なので、西行との深いつながりがうかがえる。

作品

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勅撰集
歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数
後拾遺和歌集 金葉和歌集 待賢門院兵衛  1 詞花和歌集
千載和歌集 上西門院兵衛  9 新古今和歌集 上西門院兵衛  2 新勅撰和歌集 上西門院兵衛  1
続後撰和歌集 上西門院兵衛  2 続古今和歌集 続拾遺和歌集 上西門院兵衛  1
新後撰和歌集 玉葉和歌集 兵衛
上西門院兵衛
 1
 1
続千載和歌集 上西門院兵衛  3
続後拾遺和歌集 上西門院兵衛  1 風雅和歌集 上西門院兵衛  2 新千載和歌集 上西門院兵衛  1
新拾遺和歌集 兵衛
上西門院兵衛
 1
 2
新後拾遺和歌集 新続古今和歌集 上西門院兵衛  1
百首歌・歌合
名称 時期 作者名表記 備考
西宮歌合 大治3年(1128年)8月29日 兵衛督君 兵衛君 兵衛督
南宮歌合 大治3年(1128年)9月21日 兵衛君
住吉歌合 大治3年(1128年)9月28日 兵衛君
右衛門督家歌合 久安5年(1149年)6月28日 前斎院兵衛顕仲伯女
久安百首 久安6年(1150年) 上西門院 兵衛
私家集
  • 『兵衛殿の家の集』があったという[4]伝存しない。

脚注

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注釈

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  1. ^ 金葉和歌集』に2首が入集している。
  2. ^ ただしこの「重通」の家名が伝わらず出自は不詳。『金葉和歌集』に3首、『詞花和歌集』に1首が入集している。

出典

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  1. ^ a b 「上西門院兵衛」、デジタル版 日本人名大辞典、コトバンク (2022年9月19日閲覧)
  2. ^ 『菟玖波集』 下 1895
  3. ^ 『聞書集』
  4. ^ 『実家集』

参考文献

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関連項目

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