上杉勝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
上杉勝承
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 享保20年1月12日1735年2月4日
死没 天明5年6月10日)(1785年7月15日
改名 幸松(幼名)→勝承
別名 俳号:素嶺
戒名 大方院無外帰一大居士
墓所 東京都港区白金の興禅寺
官位 従五位下駿河守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
出羽米沢新田藩
氏族 上杉氏
父母 父:上杉勝周、母:片桐貞起の娘・於繁
兄弟 勝承金田正矩
正室片桐貞音の娘
継室安藤信尹の娘
養嗣子:勝定上杉重定3男)
テンプレートを表示

上杉 勝承(うえすぎ かつよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名出羽国米沢新田藩の第2代藩主。米沢藩では俳諧でも有名で、素嶺の歌号を持つ。

経歴[編集]

享保20年(1735年)、上杉勝周の長男として誕生した。延享4年(1747年)、父の死去により家督を継いだ。駿府加番を務め、藩政では財政窮乏のために厳しい倹約令を出すと共に、産業の振興に努めた。宝暦6年(1756年)に米沢に初入国する。

本家の藩主・上杉重定は奢侈に耽り政治に無関心で、近臣の森利真が権勢を振るって藩政が混乱していた。宝暦12年(1762年)・同13年(1761年)に米沢藩の混乱を幕府に訴える箱訴まで行われ、幕閣の話題に上るに至ったため、勝承は宝暦13年12月に尾張藩家老に、重定の義兄弟である藩主・徳川宗睦に翌年の参府中、重定の引退勧告を働きかけるように依頼している。明和4年(1767年)に重定が隠居し、養嗣子治憲(鷹山)が家督相続すると、治憲や米沢藩江戸家老・色部照長と共に、白子神社に大倹実行の誓詞を奉納する。

天明5年(1785年)、死去した。享年51。跡を養嗣子の勝定(重定の三男)が継いだ。

系譜[編集]

父母

正室、継室

養子

出典[編集]