モーリス・ルナール

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"Le Péril bleu"(青い脅威)表紙

モーリス・ルナール(Maurice Renard, 1875年2月28日 - 1939年11月18日)は、フランスの小説家。20世紀の初頭、時代に先駆けたSF的な怪奇小説を書いた[1]。代表作は1912年の長編"Le Péril bleu"(青い脅威)など[2]。別名ヴァンサン・サン=ヴァンサン(Vincent Saint-Vincent)。

経歴[編集]

若年期[編集]

フランス北部のシャロン=アン=シャンパーニュで、ランスに出自を持つ中産階級の家庭に生まれる。父は司法官で、モーリスが生まれた年に裁判長に任命された。モーリス・ルナールは子供時代をエルモンヴィル(Hermonville)で過ごした。ここには、祖父母がサン=レミ城(château Saint-Rémy、1918年に取り壊し)という城を持っており、一家は広い庭園付きの家に住んだ。唯一の男児であり、2人の姉とは歳の離れた末子であった彼は、大切に育てられた。読書(殊にチャールズ・ディケンズエドガー・アラン・ポーの作品)は、子供時代の彼に大きな影響を与えた。

1886年の末、モーリス・ルナールはモンジュ学校(École Monge)の寄宿生となり、その後ボンザンファン大学(Collège des Bons-Enfants)に進学。1892年にランスに戻るまでパリに暮らした。1894年、哲学で学士号を取得。1896年から99年の三年間はランスで兵役に就いた(階級は軍曹であった)。その時期、H・G・ウェルズの作品と出会う。1899年、パリで法律を学び始めるが、すぐにそれを放棄して文学に専念するようになる。

作家として[編集]

1905年、ヴァンサン・サン=ヴァンサンの筆名で最初の短編集"Fantômes et fantoches"(幽霊と操り人形)を刊行。収録作の"Les vacances de monsieur Dupont"(デュポン氏の休暇)はウェルズの影響が窺える。なお筆名を使ったのは、同姓の著名な作家ジュール・ルナールとの混同を避けるためであった。

1903年、ステファニー・ラ・バティという女性と結婚。4人の子供を成した。はじめクレベール通り(Avenue Kléber)に居を構えたが、後にトゥールノン街(rue de Tournon)へ移った。彼の住まいには、しばしばコレットピエール・ブノワ、アンリ・ド・モンテルランらといった著名人の来訪があった。

ルナール最初の長編"Le docteur Lerne"(レルヌ博士)は1908年に刊行された。H・G・ウェルズに捧げられた本作はマッド・サイエンティストを扱っており、翌1909年に続編"Le voyage immobile"(動き無き旅)が出された。"Le Péril bleu"(青い脅威)は1912年の出版で、ルイ・ペルゴーに注目された。これは一種の侵略テーマSFであり、「地球の大気から奇妙な二足動物を“釣りあげる”異星人の視点で語られ」[3]る作品であった[1]。1913年には詩の批評誌"La vie française"を創刊し、また"Monsieur d'Outremort et autres histoires singulières"(ドゥートレモール氏と風変わりな物語集)を出版した。

第一次世界大戦においては、ルナールは1914年から1919年の初めまで騎兵士官として従軍した。

彼の長編小説"Les Mains d'Orlac"(オルラックの手)は1920年に連載の形で発表された。死刑囚の手を移植された画家を描いた作品。1924年にはオーストリアで『芸術と手術』(Orlac Hände)として、1935年にはアメリカで『狂恋』(Mad Love)として映画化されている[1]。書籍形態での刊行は1921年に"L'homme truqué"(偽造された男)として、1928年に"Un homme chez les microbes"(男と細菌)としてなされた。

モーリス・ルナールは1930年に離婚し、再婚している。1935年以降、ルナールは多くの中・短編を発表し、複数の日刊紙に連載を持った。またSociété des gens de lettres(フランス男性文学者協会)の副会長を務めた。彼は幾度にも渡る外科手術の末、1939年にロシュフォールで死亡し、オレロン島に埋葬された。

評価[編集]

ルナールはフランス語圏サイエンス・フィクションの歴史において、1900年代から1930年代の最も重要な創作者であり、19世紀末から20世紀初頭の2大パイオニア(ジュール・ヴェルヌJ・H・ロニー兄)と戦間から戦後の作家たち(ジャック・スピッツルネ・バルジャベルら)をつなぐ人物だと評価されている[2]。彼が同世代の同業者たち(ジャン・ド・ラ・イールやギュスターヴ・ル・ルージュ)に勝っていた点は、「筆力の確かさ発想の多様さ」[4]であった。ただし多くの短編において英語圏の作品からの「プロット借用」が見られる、との指摘がある[1]

作品リスト[編集]

  • Fantômes et fantoches, sous le pseudonyme de Vincent Saint Vincent (1905) - recueil de 7 nouvelles
  • Le Docteur Lerne (1908)
  • Le Voyage immobile (1909)
  • Le Péril bleu (1912)
  • Monsieur d'Outremort et autres histoires singulières (1913) - recueil de nouvelles
  • Les Mains d'Orlac (1921)
  • L'Homme truqué (1921)
  • Le Singe, co-écrit avec Albert-Jean (1925)
  • L’Invitation à la peur (1926)
  • Lui ? (1927)
  • Notre-Dame Royale. Tableau du sacre de Louis XVI à Reims. (1927)
  • Un homme chez les microbes (1928)
  • Le Carnaval du mystère-- (1929)
  • La Jeune Fille du yacht-- (1930)
  • Celui qui n’a pas tué (1932)
  • Le Maître de la lumière (feuilleton, 1933, publié à titre posthume en 1947)
  • Le Bracelet d’émeraudes (feuilleton, 1933)
  • Colbert (feuilleton, 1934)
  • Le Mystère du masque (1935)
  • Le Violon de la reine (feuilleton, 1935)
  • Les Mousquetaires des Halles (1936)
  • Fleur dans la tourmente (feuilleton, 1936)
  • Le Signe du cœur (feuilleton, 1937)
  • Les Trois Coups du destin (feuilleton, 1938)
  • La Redingote grise (feuilleton, 1939)
  • La Prison d’argile (1942)

日本語訳された作品としては短編"La cantarice"「歌姫」および"Etrange souvenir de M. Liserot"「リズロ氏の奇妙な思い出」がある。ともに『フランス幻想文学傑作選3』(窪田般彌編、白水社、1983年)所収。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d ジョン・クルート編著、高橋良平監修『SF大百科事典』(グラフィック社、1998年、ISBN 4-7661-0998-8)より
  2. ^ a b 『フランス幻想文学傑作選3』(窪田般彌編、白水社、1983年)328ページ「解説」(秋山和夫)より
  3. ^ 『SF大百科事典』p.125より引用
  4. ^ 『フランス幻想文学傑作選3』同ページより引用

外部リンク[編集]