ヒュー・パーシー (第2代ノーサンバーランド公爵)

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第2代ノーサンバーランド公爵
ヒュー・パーシー
Hugh Percy
2nd Duke of Northumberland
生誕 1742年8月14日
死没 (1817-07-10) 1817年7月10日(74歳没)
所属組織 イギリス陸軍
最終階級 大将(General)
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第2代ノーサンバランド公爵ヒュー・パーシー: Hugh Percy, 2nd Duke of Northumberland, KG, FRS, FSA1742年8月14日 - 1817年7月10日)は、イギリスの陸軍軍人、政治家、貴族。

アメリカ独立戦争においてイギリス軍の指揮官の一人だった。とりわけレキシントン・コンコードの戦いで包囲された英軍の応援に駆け付けて撤収を助けたことで知られる。最終階級は大将(General)。

生誕時の姓はスミソン英語版だったが、1750年とともにパーシーに改姓している。父がノーサンバーランド伯爵位を継承した1750年から1766年まではワークワース男爵(Baron Warkworth)、父がノーサンバーランド公に叙された1766年から爵位を継承する1786年まではパーシー伯爵(Earl Percy)の儀礼称号で称されていた。

経歴[編集]

1800年のノーサンバーランド公(トマス・フィリップス英語版画)

1742年8月14日、後に初代ノーサンバーランド公爵ヒュー・パーシーとなる第4代準男爵英語版ヒュー・スミソンとその妻エリザベス英語版(第7代サマセット公爵アルジャーノン・シーモアの娘)の間の長男として生まれる[1][2][3]

生誕時はスミソン姓だったが、1750年4月12日の議会法により父とともにパーシー姓に改姓した[3]イートン・カレッジで学ぶ[2]

1759年5月に第24歩兵連隊に少尉として入隊。同年8月に第85歩兵連隊に転属となり、大尉に昇進した[1]。同年、フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ウォルフェンビュッテル公爵の指揮下で七年戦争に従軍し、ベルゲンの戦いミンデンの戦いに参加した[1]

1762年に大尉として、第11歩兵連隊英語版グレナディアガーズの副連隊長(Lt.-Colonel Commandant)を務めた[1]

1763年3月15日にはウェストミンスター選挙区英語版から選出されてトーリー党庶民院議員となる[1][2]

1764年10月には国王ジョージ3世の副官(aide-de-camp)となる[1]1768年11月には第5歩兵連隊英語版の連隊長(colonel)となる[1]

ジョージ3世のアメリカ植民地に対する見解には賛成していなかったが、1774年春にはアメリカ・ボストンに派遣され、トマス・ゲイジ大将の司令部に勤務した[1]アメリカ独立戦争の勃発となった1775年4月19日レキシントン・コンコードの戦いでは旅団を率いてボストンから出陣し、コンコードの武器庫でマサチューセッツ植民地軍に包囲されていたイギリス軍のボストンへの撤退を助けたが、植民地軍の追撃にさらされて大きな損害を被った[1]。しかし撤退成功を評価され、1775年7月11日にはアメリカにおける少将、9月20日には陸軍における少将に昇進した[1]1776年3月には2400人の部隊の指揮権を与えられ、ドーチェスター高地要塞に攻撃をしかけるはずだったが、この攻撃は中止され、結局イギリス軍はボストンを放棄した[1]。1776年3月26日にアメリカにおける中将、同年8月29日に陸軍における中将に昇進した[1]。同年11月16日にはワシントン砦の戦いに参加し、最初に敵陣地に突入した[1]。しかし翌1777年にはウィリアム・ハウとの対立が増えたため、帰国を希望するようになり、解任された[1]

彼はアメリカにいた頃の1776年12月5日に死去した母エリザベスからパーシー男爵英語版(Baron Percy)を継承していた。この爵位は祖父7代サマセット公が叙されたものだが議会招集令状英語版によるグレートブリテン貴族爵位であるため、男子なき場合に姉妹間に優劣のない女系継承が可能であり、そのためサマセット公の死後に母エリザベスが継承していた[3][4]。この爵位を継承したことで庶民院議員から貴族院議員に転じた[1]

1784年11月に近衛擲弾兵連隊第2騎兵大隊英語版の指揮官となり、1788年6月にライフガーズに移るまで務めた[1]1786年6月6日の父の死によりノーサンバーランド公爵位を継承し、またノーサンバーランド統監英語版ノーサンバーランド副提督英語版に就任した[1][3][2]

1787年にはロンドン考古学協会フェロー(FSA)となる[2]1788年4月にはガーター勲章を受勲[1]。同年王立協会フェロー(FRS)となる[2]1793年10月12日に大将に昇進[1]1798年にはパーシー・ヨーマンリー連隊の指揮を執った[1][2]1806年12月30日には王立近衛騎兵連隊英語版の連隊長に就任し、6年間在職した[1]

政界では首相小ピットの支持者だったが、アメリカ独立戦争従軍の報奨がないことに不満を抱いて後に離反し、反小ピット派の皇太子ジョージ(後のジョージ4世)と近しい関係になった。そのため政府の役職にはつかなかったが、野党ホイッグ党フォックスにも接近しなかった[1]1803年のフランスとの戦争再開に反対した[1]

1817年7月10日に死去した[3][2]

栄典[編集]

爵位・準男爵位[編集]

1776年12月5日の母エリザベス・パーシー英語版の死により以下の爵位を継承[3][2]

1786年6月6日の父ヒュー・パーシーの死により以下の爵位・準男爵位を継承[3][2]

勲章[編集]

家族[編集]

1764年7月2日首相を務めた第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートの娘アン・ステュアートと最初の結婚をしたが、子供のないまま、1779年3月16日に離婚した[3][2]

1779年5月25日にフランシス・ジュリア・バレル(Frances Julia Burrell)と再婚。彼女との間に以下の3男2女を儲けた[3][2]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x Lee, Sidney, ed. (1895). "Percy, Hugh (1742-1817)" . Dictionary of National Biography (英語). Vol. 44. London: Smith, Elder & Co.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l Lundy, Darryl. “General Hugh Percy, 2nd Duke of Northumberland” (英語). thepeerage.com. 2016年2月3日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i Heraldic Media Limited. “Northumberland, Duke of (GB, 1766)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年2月3日閲覧。
  4. ^ Lundy, Darryl. “Elizabeth Seymour, Baroness Percy” (英語). thepeerage.com. 2016年2月2日閲覧。
グレートブリテン議会英語版
先代
エドウィン・サンズ
パルトニー子爵
ウェストミンスター選挙区英語版
選出庶民院議員

1763年–1776年
同一選挙区同時当選者
エドウィン・サンズ 1763–1770
サー・ロバート・バーナード 1770–1774
トマス・ペラム=クリントン卿 1774–1776
次代
トマス・ペラム=クリントン卿
ピーターズハム子爵英語版
軍職
先代
トマス・オグリ英語版
Major Commandantとして
第11歩兵連隊英語版
副連隊長(Lt.-Colonel Commandant)

1761年–1763年
連隊廃止
先代
スタッドホルム・ホドソン英語版
第5歩兵連隊英語版
連隊長(Colonel)

1768年–1784年
次代
エドワード・ストップフォード英語版
先代
フレデリック王子
近衛擲弾兵連隊第2騎兵大隊英語版
大隊長(Captain)・連隊長(Colonel)

1784年–1788年
大隊廃止
先代
第3代リッチモンド公
王立近衛騎兵連隊英語版
連隊長(Colonel)

1806年–1813年
次代
初代ウェリントン公
名誉職
先代
初代ノーサンバーランド公
ノーサンバーランド統監英語版
1786年–1798年
委員会制
ノーサンバーランド副提督英語版
1786年–1817年
空席
(次の就任者
第3代ノーサンバーランド公)
委員会制 ノーサンバーランド統監英語版
1802年–1817年
次代
第3代ノーサンバーランド公
グレートブリテンの爵位
先代
ヒュー・パーシー
第2代ノーサンバーランド公爵
1786年–1817年
次代
ヒュー・パーシー
先代
エリザベス・パーシー英語版
第3代パーシー男爵英語版
1776年–1812年