オロス (オゴデイ家)

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オロスモンゴル語: Oros、生没年不詳)は、オゴデイの孫のカイドゥの息子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では斡羅思(wòluosī)、『集史』などのペルシア語史料ではاوروس(ūrūs)と記される。

グユク家のトクメらとともに、「カイドゥ・ウルス(カイドゥの国)」残党の中でも最後まで大元ウルスチャガタイ・ウルスと敵対したことで知られる。

概要[編集]

『集史』「オゴデイ・カアン紀」によると、カイドゥと「ドルベジンという名の大カトン」との間に生まれた子供であるという[1]。『集史』は「カイドゥはオロスを指名し、彼に全軍を与えていた」とも記しており、カイドゥからは後継者として扱われていたようである[2]

1301年、カイドゥは大軍勢を率いて大元ウルス領のモンゴル高原に侵攻したが、カイシャン率いる大元ウルス軍に阻まれ、この戦いで負った戦傷が元で亡くなってしまった(テケリクの戦い)。亡くなる直前、カイドゥはオロスを呼び寄せてチャガタイ家のドゥアを頼るよう訓示したが、そのドゥアはカイドゥの葬儀を取り仕切る中でオロスではなくカイドゥの庶長子のチャパルを支援した[3]

1303年にはドゥアの後ろ盾の下チャパルがエミル川にて即位したが、これに対して本来の後継者であったオロス、その妹で戦士としても有名だったクトルン、グユク家のトクメらはチャパルの即位を「カイドゥの意思と命令に背くもの」として非難し、両者は内戦状態に陥った。そもそもドゥアがチャパルを擁立した目的はオゴデイ家内部に不和をもたらすことで勢力を弱体化させ、代わってチャガタイ家が「カイドゥ・ウルス」のイニシアチブを得ることにあったと考えられ、オロスとチャパルがオゴデイ家どうしで相争うのはドゥアの目論み通りであった[2]

更に、1304年にはドゥアは長年敵対関係にあった大元ウルスと単独講和を果たし、チャパルやオロスらオゴデイ系諸王は本領のジュンガル盆地で孤立することになった[4]。そのため、オロスらオゴデイ系諸王は大元ウルスとの国境にあたるアルタイ山脈方面に布陣したが、オロスは大元ウルス軍の総司令カイシャンと友情関係を結んでいたとも記され、両軍は必ずしも緊迫した状態になかったようである[5]

1306年7月、遂にカイシャン率いる大元ウルス軍はアルタイ山脈を越えてオゴデイ系諸王の領地に攻め込み(イルティシュ河の戦い)、オゴデイ系クチュ家のアルグイ、カダアン家のイェスン・トゥア、メリク家のトゥマンらほとんどのオゴデイ系諸王は捕虜となり、チャパル・オロス・トクメらのみが追撃を逃れて中央アジアに留まることができた[6]

大元ウルスに敗れたチャパル・オロスらはやむなくチャガタイ家のドゥアに投降し、同年クナス草原にてクリルタイを開催したドゥアはチャパルを廃位することで名実ともにカイドゥの後継=中央アジアの支配者としての地位を確立した。しかし、ドゥアが1307年に亡くなると、その後を継いだ息子のゴンチェクも在位1年で急逝してしまい、遠縁で長老格のナリクが即位することになったが、今度はナリクとドゥアの遺児達との間で内戦が起こることになった。これを好機と見たチャパル、トクメ、オロスらオゴデイ家残党は蜂起し、ナリクを破って即位したケベクを一度は破った[7]

大元ウルスの支援を受け、またアリー・オグルらの援軍を得た[8]ケベク軍はチャパル/トクメらを破ることに成功した。敗走後、チャパルはイリ川を越えて大元ウルスに亡命したが、トクメはケベク軍によって追い詰められ、殺されてしまった[9]

ケベクに敗れた後のオロスについては記録がなく、この時亡くなったか、もしくはチャパルとともに大元ウルスに亡命したとみられる[10]

カシン王家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 松田1996,29頁
  2. ^ a b 加藤1999,31頁
  3. ^ 加藤1999,30頁
  4. ^ 加藤1999,32-34頁
  5. ^ 加藤1999,36頁
  6. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳]十年七月、自脱忽思圏之地逾按台山、追叛王斡羅思、獲其妻孥輜重、執叛王也孫禿阿等及駙馬伯顔。八月、至也里的失之地、受諸降王禿満・明里鉄木児・阿魯灰等降。海都之子察八児逃於都瓦部、尽俘獲其家属営帳。駐冬按台山、降王禿曲滅復叛、与戦敗之、北辺悉平」
  7. ^ 『オルジェイトゥ史』には「[ケベクがナリクを打倒し、チャガタイ・ウルスの統治権を得た三日後]トクメとチャパル太子が30万の軍とともにケベクの生命を狙い至りつつあることが知らされた。ケベクは自身の兵士たちとともにクナスの宿頓から出発し、TWYRMAYに安下した。かの陣地において、トクメとチャパルは軍団の整治をなして、ケベクを攻撃した。双方より苛烈な戦闘・緊迫した交戦が進行した。ケベクは潰走・退却し、かれの軍は四方八方に散った」と記される(宮2019,451頁)
  8. ^ 『オルジェイトゥ史』には「D ̄ūal-Qarnainの弟のアリー・オグルが大軍と共にウズケントにおり、千戸の軍官アラクと二人とも各々自身の軍団と共にケベクの援助を以て連合した。ムバーラク・シャーの息子(孫)のシャイフ・テムルも、自身の軍団とともに援助・掩護を示し、一緖にトクメの背後に前去した」と記される(宮2019,451頁)
  9. ^ 『オルジェイトゥ史』には「両勢(トクメ軍とケベク軍)はクナスにおいて遭遇した。期せざる邂逅の後、戦闘になった。トクメは潰走し、カラウンと共にトゥルキーの地の諸城鎭に入り、トクトの仲間(イル)となった。ケベクは一千騎を選び、トクメの追跡に遣わした。冬の季節にトクメに追いつき、かれを捕獲し、殺した。春に帰還した」と記される(宮2019,451頁)
  10. ^ 加藤1999,38頁

参考文献[編集]

  • 加藤和秀『ティームール朝成立史の研究』北海道大学図書刊行会、1999年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」 『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』、1996年
  • 宮紀子「『オルジェイトゥ史』が語るアジキ大王の系譜(1)」『東方学報』94号、2019年
  • 村岡倫「オゴデイ=ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
  • 新元史』巻111列伝8