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オデオン座

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オデオン座
情報
用途 演劇
設計者 Marie-Joseph Peyre & Charles De Wailly
建築主 王侯
構造形式 新古典主義
着工 1779年5月
竣工 1782年4月19日
改築 たびたび
所在地 フランスの旗 フランス パリ6区コルネイユ通り2番地
座標 北緯48度50分58.2秒 東経2度20分19.5秒 / 北緯48.849500度 東経2.338750度 / 48.849500; 2.338750 (オデオン座)座標: 北緯48度50分58.2秒 東経2度20分19.5秒 / 北緯48.849500度 東経2.338750度 / 48.849500; 2.338750 (オデオン座)
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オデオン座Théâtre de l'Odéon)は、セーヌ川左岸(南側)、パリ6区に建つ、新古典主義建築の国立劇場である。旧コンデ館。座席数約1000。1782年コメディ・フランセーズ劇団の劇場として開場した。衛星写真に見るとおり、街路を隔て、リュクサンブール庭園の北に隣接する。

歴史

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この劇場は、歴史の波間で、いろいろ名前を変えている。

王立劇団コメディ・フランセーズの劇場として、1779年5月着工、1782年4月9日ルイ16世の王妃マリー・アントワネット臨席のもとに開場した。フランス座(Théâtre Français)を称した。

1789年、フランス革命直前、国民劇場(Théâtre de la nation)と改名した。1791年、革新派の俳優らが去った。1793年、平等劇場 マラー支部(Théâtre de l'Égalité section Marat)とした。1794年、一時閉鎖された。1796年、オデオン座を名乗った。1799年3月18日の火災を機に革新派と仲直りし、コメディ・フランセーズ劇団は、右岸のパレ・ロワイヤルの劇場に合体した。「とざま」俳優の一部は、残留した。

1807年6月15日、ナポレオン皇帝の資金で復旧された。皇后専用の趣旨で、名称は皇后劇場(Théâtre de l'Impératrice)であった。

1818年5月20日、ルイ18世時代にまた燃え、再建後の1819年、コメディ・フランセーズの第2劇場、第2フランス座(Second Théâtre-Français)に指定された。

1830年、7月革命では、革命派市民の拠点にされた。革命後公的補助が廃され、貸し小屋となり、乗合劇場(Théâtre "Omnibus")のあだ名がついた。

1848年の二月革命の余波で破産し、いったん閉鎖した。

1866年、ナポレオン3世時代、コメディ・フランセーズを抜けたサラ・ベルナールが1872年までオデオン座で公演した。1870年、パリプロイセン軍に包囲されたときは、負傷者の収容所になった。

1892年、第3共和制時代に劇場が国に返還された。

1906年、ふたたび第2フランス座(Second Théâtre-Français)となった。

第二次世界大戦中、1940年から1944年の被占領期には、ドイツ軍が駐在した時期もあった。

戦後の1946年2月27日の政令で、コメディ・フランセーズの第2劇場とされた。右岸パレ・ロワイヤルの第1劇場は『リシュリュー館』(Salle Richelieu)、左岸のオデオン座は『リュクサンブール館』(Salle Luxembourg)と呼び分けられ、新旧・内外など、両館の演目が区分された。

1959年、ド・ゴール大統領の時代、文化相マルローが、オデオン座をコメディ・フランセーズから離し、フランス劇場(Théâtre de France)と名付け、ジャン=ルイ・バローマドレーヌ・ルノーとの『ルノー=バロー劇団』(la troupe Renaud-Barrault)に預けた。

1967年1月、実験的な小劇場『プティ・オデオン』(Petit-Odéon)を併設した。

1968年、五月革命の学生らにオデオン座を明け渡した廉で[1]、バローがマルローに罷免され、劇場は1971年、ポンピドゥー大統領の時代にコメディ・フランセーズの管轄下に戻って国立オデオン劇場(Théâtre national de l'Odéon)を称し、内外の演劇の進歩に努める定めになった。

1983年、ミッテラン大統領の時代に欧州共同体(EC)から欧州連合(EU)への機運の中で『ヨーロッパ劇場』の催しを始め、従来からの演目の上演と各国の劇団の公演とを両立させた。1990年、コメディ・フランセーズから離れ、全くのヨーロッパ劇場(Théâtre de l'Europe)となった。諸国の劇団や演出家が、上演し合う劇場である。

1995年、演劇図書館『ジャン=ルイ・バロー』文庫を、開設した。

劇場は、ひんぱんに修理を重ねられてきた。

2007年5月から2012年3月までオリヴィエ・ピィOlivier Py)が支配人を務めた。

脚注

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  1. ^ ジョン・バクスター『二度目のパリ 歴史歩き』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013年、209頁。ISBN 978-4-7993-1314-5 

参照

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  • パトリック・ドゥヴォー(伊藤洋訳)、コメディ=フランセーズ、文庫クセジュQ772、白水社(1995) ISBN 978-4-560-05772-8
  • 渡辺淳:パリ・開幕 劇場・映画館探訪、丸善ブックス072、丸善(株)(1998)  ISBN 4-621-06072-4

外部リンク

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