ウクライナ化

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ソビエト赤軍によるウクライナ語のポスター: 「息子よ、赤軍の将校の学校へ入学しなさい! そうしてくれると、ソビエトのウクライナは安泰じゃ!」

ウクライナ化(ウクライナか、ウクライナ語: українізація: украинизация)は、生活の諸分野におけるウクライナの言語と文化の諸要素を政治的に促進し実現するものである。とりわけ1923年から1933年にかけてウクライナ・ソビエト社会主義共和国においてソ連政府およびソ連共産党が行った公式の民族政策をいい、1923年に第12ロシア共産党大会で決定された非ロシアの自治共和国におけるコレニザーツィヤ政策(露: коренизация、現地化政策[1][2]、根付く政策)の一種である。政策の目的は、ソ連政権とウクライナ人との間の摩擦を和らげ、軍事的支配のみならず、効果的な政治的支配および行政的支配を確定することにあった。政策の方法は、ウクライナ語の教育および出版物の普及、共産党や赤軍へのウクライナ人の採用などであった[3]

1923年-1933年[編集]

ソビエトの政権がウクライナで確立した1921年以後、ロシア人ユダヤ人を中心としたウクライナ共産党の幹部はロシア化を促進していた[4]ロシア語は都市を拠点とする「先進的な労働者階級」の言語として重視され、ウクライナ語は町村を頼る「後退的な農民階級」の言語として迫害された。当時のウクライナの人口の8割が農村部に住んでおり、またウクライナの農村が常に反ソビエトの蜂起の中心であったので、ロシア化政策を巡ってウクライナ人と共産党関係者は対立していた。そのために、ウクライナ共産党にはウクライナ人が非常に少なく、党員には3割、幹部には1割弱しかいなかった[4]

1919年にウクライナでの支配を確実なものにするために、レーニンを中心としたモスクワの政府は、ウクライナ人に対する柔軟策を義務付ける「ウクライナにおけるソビエト政権について」という指令を出したが、ウクライナ共産党の幹部はその指令に反発し、実行に移さなかった。また、1923年にソ連政府がコレニザーツィヤ政策を定めた後も、ウクライナの幹部はロシア化を進めていった[5]。しかし、1925年にウクライナ共産党第一書記スターリンの子分ラーザリ・カガノーヴィチが任命されると、状態一変し、ウクライナ化が始まった。スターリンとカガノーヴィチの努力により、ウクライナ共産党幹部にシュームシキー、フヴィリョヴィーイ、スクルィープヌィクをはじめとするウクライナ人の政治家が入った。彼らは民族共産主義グループと呼ばれ、ウクライナ民族文化の発展のためにウクライナ化政策を有効的に利用した[6]

1923年から1927年にかけてウクライナ化政策により、ウクライナ共産党にウクライナ人の党員は3割から5割まで増加した。しかし、幹部にはウクライナ人が以前と同様に少なく、2.5割しかいなかった。1927年までにウクライナ共和国にあった5分の4の大学は、ウクライナ語を講義用言語とし、共和国内に出版されるウクライナ語の書物と新聞の数はロシア語の書物と新聞の数を上回った。スクリープニクの決断により、ウクライナ語は赤軍の将兵学校の一部に授業用言語として導入された。大きなウクライナ人の居住地があるクバーニカザフスタンなどでもウクライナ語学校が開校され、ウクライナ語のマスコミに対し活躍の場が与えられた[6][4]

1920年代後半にウクライナ化政策は、ウクライナ文化の再生する一方で、ソ連の中央集権政府が望んでいなかった地方分権化を促した。そのためにウクライナ化政策に不満を表明する共産党幹部の一部は、ウクライナ化の指導を「分離主義者」・「民族主義者」と非難し、党内でウクライナ化の廃止キャンペーンの準備を進めた。1927年以降、カガノーヴィチの推薦によりウクライナ化の規模が次第に縮小されるようになり、ウクライナ共産党は「ウクライナの資本主義的な民族主義」との戦いが開始した。1932年にソ連政府のスターリンとモロトフは、ウクライナ化を「ペトリューラ主義者の政策」、「ウクライナ民族主義的偏向」として批判し[4]、1933年にウクライナ化政策を完全に廃止し、ロシア化を再開した。ウクライナ民族共産主義ゲループの指導者は自害に追い込まれ、ウクライナ化によって芽生えたウクライナの新知識人逮捕粛清されていった[4][7]

1920年代のウクライナ化政策に関してヤロスラフ・フリツァーク(Yaroslav Hrytsak[8]リヴィウ国立大学歴史研究所長[9]Narys istorii Ukrainy: Formuvannia modernoi ukrains'koi natsii: XIX-XX stolittiaキエフ: Heneza, 1996年)においては力強いウクライナ民族運動の成果が一面として叙述されている[10]

1940年代[編集]

1991年以降[編集]

脚注[編集]

  1. ^ (日本語) 塩川伸明ソ連言語政策史再考」『スラヴ研究』第46号、北海道大学スラブ研究センター、1999年、155-190頁、ISSN 05626579NAID 120001442886 
  2. ^ 1. ソ連言語政策史概観 (2) ソヴェト政権初期" p.162
  3. ^ 中井 1998:314-315.
  4. ^ a b c d e Підкова 1993
  5. ^ 中井 1998:316-317.
  6. ^ a b 中井 1998:317.
  7. ^ 中井 1998:317-318.
  8. ^ またはIaroslav/Jaroslav Hrytsak/Hrycak。
  9. ^ 1996年時点の役職。
  10. ^ (日本語) 光吉淑江ヤロスラフ・フリツァーク著『ウクライナ史概略―近代ウクライナ民族の形成―』」『スラヴ研究』第46号、北海道大学スラブ研究センター、1999年、277-285頁、ISSN 0562-6579NAID 120001442890 

参考文献[編集]

発展資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]