アメリカ合衆国広報文化交流局
アメリカ合衆国広報文化交流局[1](英語: United States Information Agency ; USIA , United States Information Service ; USIS)は、プロパガンダ機関である戦時情報局の後継組織として1953年に発足した連邦行政機関、対外広報機関である[2]。ジョージ・W・ブッシュ大統領による情報機関の再編に先立つ1999年に、ビル・クリントン大統領によって国務省に統合された。
英語名に則した訳は、アメリカ合衆国情報局。アメリカ海外広報庁[2]、米国文化情報局[3]、合衆国情報局、合衆国情報庁などとも訳される。
概要
[編集]第2次世界大戦でアメリカ陸軍元帥を務め情報戦・心理戦を重視したドワイト・D・アイゼンハワーが、1953年1月20日にアメリカ合衆国大統領に就任して間もなく[1]、行政府再組織計画および大統領行政命令に基づいて設立した[2]。
ボイス・オブ・アメリカやラジオ・フリー・ヨーロッパなどの放送事業、各国での非公開の世論調査、親米的な国際世論の形成、東側諸国に対する政治宣伝、フルブライト・プログラムに代表される留学生・研修生受け入れ事業などを担った。日本では、反共工作の一環としての日本映画製作や、原子力平和利用博覧会も手がけた。職員数は6000人以上であった[1]。
沿革
[編集]太平洋戦争目前の1941年7月に設立されたアメリカ政府の諜報・プロパガンダ機関「情報調整局OCI」(Office of the Coordinator of Information)が、日米開戦後の1942年6月に「戦略情報局OSS」(Office of Strategic Services)と「戦時情報局OWI」(Office of War Information)とに分割した。
両局とも、敵の戦意をくじくためのプロパガンダ組織だが、前者は諜報活動のような、非合法な手段によって公衆に不信・混乱・恐怖を与えることを目指す「黒いプロパガンダ(Black propaganda)」を担当し、のちに中央情報局CIAへと発展した[4]。
後者は放送のような、情報を明瞭な事実として公衆に理解させることを目指した「白いプロパガンダ(White propaganda)」を担当し[4]、これが戦後、アメリカ合衆国国務省広報部(Bureau of Public Affairs)の配下になり、情報教育局USIE(Information and Education Agency)、国際情報局IIA(International Information Administration)と改名を続けたのち、アメリカ合衆国情報サービスUSIS(United States Information Service)のもとで拡大し、1953年に国務省から独立してアメリカ合衆国情報局USIAへと移行した[5]。
1999年に国務省に統合された後は、テレビ部門がBroadcasting Board of Governors (BBG)、それ以外の機能がアメリカ合衆国国務次官(公共外交・広報担当)の部門に分かれた。各国駐在大使館では広報・文化交流局が統括し担当公使が置かれる。
脚注
[編集]- ^ a b c “原子力時代の死角 核と日本人 026『非核』の原型Ⅳ”. 共同通信. (2014-0-0) 2016年4月12日閲覧。
- ^ a b c アメリカ海外広報庁 アメリカかいがいこうほうちょう United States Information Agency; USIA ブリタニカ国際大百科事典小項目事典
- ^ ユー‐エス‐アイ‐エー【USIA】[United States Information Agency] デジタル大辞泉
- ^ a b 冷戦期のアメリカの対日外交政策と日本への技術導入 : 読売新聞グループと日本のテレビジョン放送及び原子力導入 : 1945年~1956年第1章 アメリカの心理戦とテレビジョン放送 奥田謙造、東京工業大学、2007/03/26
- ^ HENRY (HANK) GOSHO -The Association for Diplomatic Studies and Training Foreign Affairs Oral History Project Information Series, January 4, 1989