見田石介

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見田 石介(みた せきすけ、1906年4月23日 - 1975年8月9日)は、日本哲学者マルクス主義経済学者、ヘーゲル研究者。

人物

旧姓甘粕、筆名佐竹 恒有瀬木 健[注釈 1]島根県津和野出身。1923年3月県立富山中学校4学年修了。1927年3月旧制第四高等学校理科卒業。1930年京都帝国大学文学部哲学科卒業[1]波多野精一に師事し、ヘーゲルの歴史哲学を研究した。同年4月に同大学大学院に進学し、同時に平安女学院講師に就職するが、1931年3月に大学院を退学。同年4月に平安女学院講師も退職する。1932年10月に創立された唯物論研究会に11月に参加。1933年機関誌『唯物論研究』に執筆開始。1934年『ヘーゲル哲學への道』を、1935年『唯物論全書 藝術論』を刊行した。しかし、1940年1月に唯物論研究会に関連して検挙される。同年11月起訴猶予で釈放。1941年日本大学予科教授、1947年4月に同学を退職。同年民主主義科学者協会哲学部会機関誌『理論』の編集代表者となり1950年6月まで継続させる[注釈 2][注釈 3][注釈 4]1951年4月より愛知大学教授、1952年5月同学を退職し、大阪市立大学講師に就任。1961年10月より大阪市立大学教授、1970年3月同学を定年退官。1971年3月日本福祉大学教授に就任。この間1968年4月より1969年3月まで大阪市立大学経済研究会会長[2]。また、1973年12月からは雑誌『唯物論』編集委員会の顧問をつとめた。唯物論研究会会員。元民主主義科学者協会幹事。

1933年の結婚より妻の姓を名乗る。憲兵大尉甘粕正彦は従兄弟。社会学者の見田宗介(真木悠介)は息子。漫画家の見田竜介は孫。門下に上野俊樹林直道など。

1975年8月9日、関西勤労者教育協会による「哲学ゼミナール」に出講、帰宅後急逝した[3]。死因は心筋梗塞。69歳没。

思想

唯物論

小林多喜二の「一九二八年三月一五日」を読んで、唯物論が人間の魂の内部に滲透することを悟り唯物論者になる[3]

1933年から1938年までの『唯物論研究』および後続誌『学藝』への甘粕石介名での執筆は、「ヘーゲル哲学の環境」、「天才と社会」、「美学か芸術学かー城北氏へのお答へー」、翻訳:ヘーゲル「文学[詩]の本質」、書評:守田正義著『音楽論』、「芸術の写実について」の6編。唯物論研究会の執筆陣の中では、専門範囲を定めて活躍している。一方、同じ誌上には筆名瀬木健での執筆もあって、内容が多岐にわたっている。唯物論全書作成にも参加し、戸坂潤らを中心とした初期の唯物論研究会による集団学習方式のさまざまな実践を体現している。

戦後約十年の間は、戸坂没後の時代にあって弁証法、唯物論の普及啓発に尽くした。ヘーゲルの所論、肯定論、反対論を精査吟味し、残すべき中核となる理念を抽出するという学習者、解釈者の態度を貫きつつ、最初機関誌編集者の立場から、1951年からは大学教授の立場から啓発活動を継続した。民主主義科学者協会員としては、哲学部会の活動を牽引、「民主主義哲学」の構築を志した[4]

1956年頃、哲学から経済学へと研究領域を移行する[5]。マルクス経済学に関しても所論、肯定反対論の分析を通じ、解釈者兼紹介者の立場をとった。

見田石介の資本論との遭遇

見田石介が資本論と遭遇したのは、1951年に、岡本博之教授の尽力によって、大阪市立大学経済学部講師として赴任し、彼のために新設された経済哲学という科目を担当したのがきっかけである。この点は、見田石介著作集第1巻(1976年10月12日、大月書店、15頁から16頁)に掲載された、彼の弟子の一人たる林直道氏執筆「見田石介氏の学問と生涯」に具体的に記述されている。

林直道氏は、この頃の見田石介の様子を以下のように回想している。

「市大経済学部では見田氏のために「経済哲学」という課目を新設したが、これまで哲学者として通ってきた見田氏が、46歳になってから経済学に転換するために、ひじょうな努力を払ったことは想像にかたくない。文字どおり初心にかえり、熱心に『資本論』や『経済学批判』と格闘し、たくさんのノートをとっていた氏の姿が今も私の目にうかぶ。」

弁証法

見田石介は、ヘーゲルとマルクスの研究を通して、弁証法を、思惟、歴史、自然のすべてに通ずる一般的法則だと認識した。

この点は、見田石介著作集第1巻所収「分析的方法とヘーゲルおよびマルクスの弁証法的方法」に続く付録(ヘーゲルとマルクス、1974年10月5日の講演のレジメ全文)の冒頭で以下のように記述されている。

ヘーゲルは、時代的な制限もあり、ことにその観念論の立場の制限があったが、自然、社会、思考の諸過程を深く研究することによって、それらを支配している弁証法の諸法則を発見し、これをはじめて包括的に叙述するという業績をなしとげた。 — 「見田石介著作集第1巻」255頁

この点は、28歳で最初に上梓した「ヘーゲル哲学への道」では、以下のように記述されている。

ヘーゲルの弁証法は、かかる限られた世界のみの法則ではなく、思惟、歴史、自然のすべてに通ずる一般的法則である。 — 「見田石介著作集補巻」19頁

付録(ヘーゲルとマルクス、1974年10月5日の講演のレジメ全文)は見田石介著作集編者が見田逝去後遺族の許諾を得て著作集に収録した草稿であり、遺稿である。

科学の発展の歴史を明確に区切る事は出来ないが、見田の脳裏には、これら三つの領域が存在し、弁証法はそれら三つの領域を支配する一般的法則だと認識していた。

しかし、見田は、この認識を証明せず、言いっ放しのまま逝った。

神秘的観念論者ヘーゲル

ヘーゲル哲学の研究に生涯を捧げた見田石介は、ヘーゲルの観念論者としての側面を、その最初の著作と最晩年の論文の中で、以下のように、説明している。

見田石介は、ヘーゲルを「神秘的観念論者」だったと理解していた。

しかし、見田石介は、ヘーゲルを観念論者としてのみ理解していたのではなく、ヘーゲル論理学の核心たる弁証法の理解においては、むしろ、ヘーゲルが唯物論者だったから、弁証法を、発見できたと理解していた。

ヘーゲル哲学への道(28歳、1934年、清和書店発刊)

以上がその先行哲学と区別されたヘーゲル哲学の特質、優越点であるが、一方またヘーゲル哲学はその観念論という点に於いて、それらのいずれとも共通点をもっていることは勿論である。それどころか、彼の哲学は、それ以前の一切の観念論が有した矛盾を綜合したものとして、哲学史上に於ける最も大規模な観念論であり、従って一切の観念論がもっている神秘性と荒唐無稽さも、ここでは極度に誇張されて現われている。

彼に於いては『存在』は思惟から独立した存在ではなく、存在の本性は思惟であり、存在は本来思惟の外化であるに過ぎない。それ故認識とは本来思惟であるところの実体が、自己自身を自己の対象として疎外し、この自己の他有のうちに再び自己自身を認めることとなる。それ故にこそ思惟の対象に対する絶対的な到達、両者の絶対的な合一が可能であったのである。この点は存在は意識から独立であり、認識は永久にそれに近接してゆくが、それへの絶対的到達は不可能だとする唯物論の立場とは反対である。

見田石介「見田石介著作集補巻」(大月書店、1977年4月27日、43頁)

へーゲル論理学と『資本論』(66歳)

へーゲルの観念論は、現実の事物を思想とみ、思想をあたかも現実の事物であるかのようにとりあつかうまったく神秘的な観念論であった。

ヘーゲルの弁証法は、ほかにも事情があったが、なによりもこうした現実の事態とたんなる思想とを混同する観念論によって制限され、歪められたものとなったのである。

見田石介「見田石介著作集第1巻」(大月書店、1976年10月12日、111頁)

なお、上に述べたように、見田石介は、ヘーゲルを「神秘的観念論者」だったと理解していたが、これは、彼が、資本論を研究する以前からの理解である。

また、先に述べた、見田石介が、ヘーゲルを唯物論者だったと理解していた部分は以下の通りであり、この部分は、見田石介が、ヘーゲルを神秘的観念論者だと述べた、そのすぐ後に記述されている。

ヘーゲルは、「哲学的思惟」すなわち真に科学的な思惟の本性は謙虚なものであって、「個人的な意見をすてて、実在そのものを自己のうえに君臨させることにある」(『小論理学』上、115ページ、岩波書店)ということをいっているが、じっさいかれの観念論はそのうちに、唯物論的な要素をふくんでいたのである。

これでこそ、へーゲルは論理学の革命をおこなうことができたのであり、また観念論の立場にたちながら、弁証法の諸法則の偉大な洞察者、発見者となることができたのである。

見田石介「見田石介著作集第1巻」(大月書店、1976年10月12日、112頁)

マルクスは、資本論第一巻あと書き〔第二版への〕で以下のように、ヘーゲル弁証法の「神秘化」に言及しているが、これは、マルクスが、ヘーゲルを観念論者だと理解した上での言及であるから、マルクスもまたヘーゲルを「神秘的観念論者」だと理解していた事になる。

弁証法がヘーゲルの手のなかでこうむっている神秘化は、彼が弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的で意識的な仕方で叙述したということを、決してさまたげるものではない。弁証法はヘーゲルにあってはさか立ちしている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない。

マルクス『資本論第一巻a』(日本共産党中央委員会付属社会科学研究所資本論翻訳委員会訳、新日本出版社、1997年12月5日、29頁)

へーゲルから学ぶべきよき点

見田石介「ヘーゲル哲学への道」の序文のみに着目して、見田石介が、この最初の入門書的著作で、紹介しようとしたと、本人が述べた内容を、本人の記述に従い整理すると、以下の五点になる。

序──ヘーゲルから何を学ぶべきか──(19─25頁)

二(へーゲルから学ぶべきよき点、22─25頁)

ヘーゲルから学ぶべきものは、弁証法である。ただ弁証法に尽きていると言ってよい。

1.対立物の同一、或は相互浸透の法則、矛盾(22頁)

2.発展、歴史の法則(23頁)

3.否定の否定の法則(24頁)

4.あらゆる観念論者のうちにあって、彼ほど客観的であったものはないと言える。彼は多くの唯物論論者よりも更に唯物論的であった。(24─25頁)

5.合理主義(25頁)

(出典および頁数:見田石介著作集 補巻、大月書店、1977年4月27日第1刷発行)


見田石介の「誤解」


見田石介は、1934年に、弱冠28歳で著した「ヘーゲル哲学への道(清和書店発刊)」で、「序──ヘーゲルから何を学ぶべきか」、「初期の宗教研究」に続く「精神現象学 一 近世哲学史に於ける『精神現象学』」において以下のように、「ヘーゲル哲学の特質、優越点」を概説しているが、この部分には、彼のヘーゲル理解の根幹をなす「神秘性」が現れ、この理解は、その次に示すように、最晩年の66歳に著した「へーゲル論理学と『資本論』」では、「まったく神秘的な観念論」として現れている。

見田石介自身が、「一切の観念論がもっている神秘性と荒唐無稽さ」と述べているように、見田石介が、ヘーゲルの観念論の特質を、「神秘的」と述べたのは、実は、見田石介の「誤解」であって、見田石介自身が認めているように、観念論は、すべて、唯物論の立場からは、「神秘的」なのである。

以上がその先行哲学と区別されたヘーゲル哲学の特質、優越点であるが、一方またヘーゲル哲学はその観念論という点に於いて、それらのいずれとも共通点をもっていることは勿論である。それどころか、彼の哲学は、それ以前の一切の観念論が有した矛盾を綜合したものとして、哲学史上に於ける最も大規模な観念論であり、従って一切の観念論がもっている神秘性と荒唐無稽さも、ここでは極度に誇張されて現われている。彼に於いては『存在』は思惟から独立した存在ではなく、存在の本性は思惟であり、存在は本来思惟の外化であるに過ぎない。それ故認識とは本来思惟であるところの実体が、自己自身を自己の対象として疎外し、この自己の他有のうちに再び自己自身を認めることとなる。それ故にこそ思惟の対象に対する絶対的な到達、両者の絶対的な合一が可能であったのである。この点は存在は意識から独立であり、認識は永久にそれに近接してゆくが、それへの絶対的到達は不可能だとする唯物論の立場とは反対である。見田石介「見田石介著作集補巻」(大月書店、1977年4月27日、43頁)

へーゲルの観念論は、現実の事物を思想とみ、思想をあたかも現実の事物であるかのようにとりあつかうまったく神秘的な観念論であった。ヘーゲルの弁証法は、ほかにも事情があったが、なによりもこうした現実の事態とたんなる思想とを混同する観念論によって制限され、歪められたものとなったのである。「へーゲル論理学と『資本論』」(見田石介「見田石介著作集第1巻」、大月書店、1976年10月12日、111頁)

著作

  • 『ヘーゲル哲学への道』1934年、清和書店、のちに再刊1947年、解放社、再々刊1996年、こぶし書店
  • 『唯物論全書芸術論』1935年、三笠書房
  • 『現代哲学批判』1948年、北隆館 のちに再刊1995年、こぶし書店
  • 『藝術学の諸問題』1948年、塙書房
  • 『辯證法を學ぶ人のために』1948年、解放社
  • 『新しい人間の誕生ー唯物論的人間の把握』1948年、史学社
  • 『芸術論』1949年、三笠書房
  • 『ヘーゲル─辯証法哲學者としての─』1949年5月30日、解放社
    「はしがき」で本人が記述しているように、28歳で上梓した「ヘーゲル哲学への道」の続編に当たり、終戦を跨ぐ15年後の43歳の業績である。
  • 『科学論 現代哲学全書12』1958年、青木書店
  • 『資本論の方法』1963年7月、弘文堂
  • 『宇野理論とマルクス主義経済学』1968年、青木書店
  • 『価値および生産価格の研究』1972年4月20日、新日本出版社、当時、見田石介は、日本福祉大学教授だった。
  • 『経済学の基礎』1975年、日本福祉大生協
  • 『見田石介著作集 全7巻』1976年-1977年刊行、大月書店
    • 『第一巻 ヘーゲル論理学と社会科学』
    • 『第二巻 科学論と弁証法』
    • 『第三巻 資本論の方法Ⅰ』
    • 『第四巻 資本論の方法Ⅱ』
    • 『第五巻 マルクス主義経済学の研究』
    • 『第六巻 現代イデオロギー論』
    • 『補巻  ヘーゲル哲学への道、芸術論』
  • 『ヘーゲル大論理学研究 全3巻』1979-1980年刊行、大月書店
    • 『第一巻 「序論(論理学の一般的概念、論理学の一般的区分)」』 - 内容 「第一部 有論  第一編 質(規定性)」
    • 『第二巻 「本質論 第一編 (自己反省における反省としての本質)」』
    • 『第三巻 「第二部 本質論(続き)第二編 現象、第三編 現実性」』

翻訳

  • ヘーゲル『美学体系(1)ヘーゲル美学の弁証法』1932年、春陽堂   
  • ゴールトン『天才と遺伝』上・下 1935年、岩波書店
  • クーノー・フイシャー『ヘーゲル傳』1935年10月15日、三笠書房、Kuno Fischer(1824─1907)、Geschichte der neueren Philosophie ヘーゲルの巻における「伝記、著作」の部分の訳。
  • ディルタイ『青年時代のヘーゲル』1938年5月17日、三笠書房、Wilhelm Dilthey(1833-1911)"Die Jugendgeschichte Hegels" 、のちに名著刊行会より1976年9月15日に再刊。 
  • ヘーゲル『美学講義』1・2 1949年、1950年、北隆館 

雑誌論文

  • 「ヘーゲルと浪漫主義」『思想』第145號 1934年  

参考文献

  • 『旅行記・日誌』1976年8月、見田キヨ[注釈 5]
  • 「見田石介氏の人と学問」(高田太久吉、週刊読書人、第1159号、1976年、4頁)

脚注

注釈

  1. ^ 『唯物論研究』〔復刻版〕別巻1976年、青木書店 なお、同誌には、「現代日本における観念論哲学界鳥瞰図」、「優生学について」、書評:イシチェンコ編『唯物弁証法辞典』、書評:『ソヴェートの教育の全貌』、書評:ピンケウィッチ『教育学概論』、「芸術遺産の摂取」、書評:『ラモオの甥』、書評:ウィットフォーゲル著『市民社会史』、書評:『世界文化』10月号ー現代フランス文化の紹介ー、翻訳:マルセル・プルナン「生物学とマルクス主義」、「評伝の方法についての覚書」、書評:黒田辰男訳編『ゲーテ論攷』、書評:舟木重信著『ゲーテ・ハイネ・現代文芸』、書評:小泉丹著『生物学巡礼』、書評:舟木重信著『ゲーテ人生読本』、「邦人作曲コンクールと独立美術展」、「直接的認識のカテゴリー」の16編が瀬木名で掲載されている。
  2. ^ 『理論』編集に専念する。『ヘーゲル哲学への道』巻末略年譜 1996年、こぶし書店 なお、『理論』は日本評論社刊。
  3. ^ 島田豊によると1946年11月7日付けの同誌「創刊の言葉」は見田の起草になるとのこと。岩崎允胤「見田石介先生の御逝去を悼む」『唯物論』1975年11月号 p.95
  4. ^
    一 最近の哲學界 日本の哲學はつい去年まで、やばんな侵略戦争を哲學的に合理化し飾り立てて、軍國主義者たちの大じかけの人間屠殺、文化破壊、人道じうりんの事業に奉仕していた。日本の哲學は侵略戦争が失敗するとすぐさま、民主々義の哲學を唱え、平和日本、文化日本、道義國家の哲學的基礎づけを行い、相變らず絶對的なものの前での人間の無力、科學の無力を言い立て、無我や涙つぽい友愛やざんげやを説敎している。非人間的な戰争の哲學から、文化的、平和的、宗敎的な快い感じを與える哲學へ、別にケジメをつけないでだらだらと移つて行つている。哲學者の方では昨日までのことを忘れたふりをし、大衆もつい昨日のことを、別に思い出しもしないようだ。

    これは明かにいけないことである。しかしいけないのは哲學者の戰争責任が問われないからではない。哲學者の恥じしらずの無節操が責められないからでもない。問題はもっと重大である。

    戰争哲學は日本の哲學者の野心や卑しさや輕はずみからだけ生れたのではないからである。もともと日本の、哲學そのものの中に、これが非人間的な、神がかり的な戰争哲學になつても不思議でないような、或る條件の下ではそれが當然であるような、そういう非人間的な神がかり的な本質が存していたのである。外國へのやばんな侵略と國内におけるやばんな抑壓――これは一つのことである――をこれまで助けて來、これからも助けてゆくにちがいないもの、これが文化や道義や民主々義やの看板の下でズルズルと新しい時代に持ちこまれようとしていること、そして大學敎授や博士や勅任官やである哲學者たちのもちこむこのものが、自分でものを考えないでそういう偉い人の言葉をありがたく受けいれるように慣された大衆の間にこれが受け入れられ、その盲從的な意識を一層强めるのに役立とうとしていること、ここにかんじんな點がある。

    二 民主々義哲學者の第一の任務 民主々義的哲學を築くことと、日本の民主々義革命を哲學の面で助けてゆくことを任務とする民主々義哲學者の置かれているのはかような狀勢である。ここから民主々義哲學者の第一の任務が生れる。それはこれまで軍國主義的なやばんな政治を存續せしめたような、また戰争哲學ともなり得たような、これまでの哲學から、その非人間的な本質を打ち碎いて、これに近代哲學の精神であつた人間性と科學性とを徹底的に沁みこませることである。それから自分でものを考えないで偉い人の言うことにただ盲從して來た人民に自分でものを考え、人間の價値を尊重する精神を與えることである。

    日本のこれまでの哲學は、自由民權の思想と共に入つて來た民主々義的な、また實證的合理的な英佛の哲學を次第に捨てて、絶對主義的なドイツ哲學を近代哲學の代表者としてとり入れて行つた。

    日本の哲學では、人間は原罪や業の重荷を背負わされて、面を上げて堂々と歩いてはいけないものであり、絶對者の前に全く無力であり、ただざんげによつてのみ救われるものであつた。人間は人間の手で地上の困難を克服し、地上に理想社會を築くことの絶對にできないものであつた。また人間の理性と科學とはとうてい眞理を認識し得ないものであり、科學はいつでも宗敎的な神祕的な方法から數段低いものであつた。

    かような考え方こそこれまでの非人間的な専制政治のための地盤であり、またこんどの野蠻な戰争哲學の生みの母だつたのである。我々は日本にもはや二度とかような非人間的なものを君臨させないために、こんどこそ日本の哲學と日本人の考え方の中からかようにみじめな人間觀と、科學をいやしめる考えとをすつかり追い出し、それに高いヒューマニズムと徹底した科學性とを滲みこませなければならぬ。これによつてわが哲學とわれらの考え方を中世からキッパリと分たねばならぬ。これが新しく發足せんとするわが民主々義哲學者の第一の、巨大な任務である。 — 「創刊の言葉」その一、二『理論』第1巻1号 1-2頁
  5. ^ 1940年から1945年にかけての生活記録。

出典

  1. ^ 『京都帝国大学一覧 昭和5年』京都帝国大学、1930年12月、p.450
  2. ^ 「見田石介先生略歴」『唯物論』1975年11月号
  3. ^ a b 岩崎允胤「見田石介先生の御逝去を悼む」『唯物論』1975年11月号
  4. ^ 「創刊の言葉」「編集の後で」『理論』創刊號、1947年2月
  5. ^ 『価値および生産価格の研究』1972年、新日本出版社

関連項目