源師光

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源師光(みなもと の もろみつ)

源師光(清和源氏頼光流)

 
源師光
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 不詳
死没 康和2年(1100年
改名 国仲(初名)→国保→師光
官位 従五位下蔵人相模守信濃守
氏族 清和源氏頼光流(摂津源氏
父母 父:源頼国、母:藤原中清の娘
兄弟 頼弘頼資頼実実国頼綱六条斎院宣旨国房頼仲師光頼房頼任富国明円藤原為房室、藤原師実室、藤原顕家室、藤原良綱室、藤原定輔
実俊、盛実、満隆
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源 師光(みなもと の もろみつ)は、平安時代中期から後期にかけての官人歌人源頼国の八男。官位は、従五位下蔵人相模守信濃守(『尊卑分脈』)。

略歴

主殿助を務め、治暦4年(1068年)に六位蔵人に補される(『扶桑略記』)。師光も兄弟らと並び歌道に邁進し、蔵人左衛門尉であった承保2年(1075年)に白河天皇主催の『殿上歌合』に出詠するなどしている。その後、相模守となり、晩年の永長元年(1096年)に病没した前任の藤原永清に代わり信濃守に任ぜられるが康和2年に(1100年)に卒去した(『中右記』『勅撰作者部類』)。

その詠歌は『後拾遺和歌集』以下の『勅撰和歌集』に計2首が入集する。後代、長子・実俊の子孫は代々僧侶の家系として続き、その子孫に後白河後鳥羽高倉三代天皇の御読経者となった宗厳があった。また三男・満隆の子孫は摂津国西成郡福島荘[1]を相伝する福島氏として存続した。

参考文献

源師光(清和源氏義光流)

源 師光(みなもと の もろみつ、生没年不詳) は、平安時代後期の武士源義清(武田義清)の次男。新羅三郎義光の孫にあたり、兄弟に清光(逸見冠者)らがある。成光の父。仮名は次郎。方原師光とも呼ばれる。

その経緯については不明となっているが、三河形原郷(現在の愛知県蒲郡市形原町)を中心とする荘園(正確な名称は不明)の下司となり同地に居住した。久安5年(1149年)に後の形原城の前進となる居館を荘内に築き統治にあたったとされる。

源師光(村上源氏)

 
源師光
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 天承元年(1131年)頃
死没 元久元年(1204年)頃
改名 師光→生蓮(法名)
別名 小野宮侍従
官位 正五位下右京権大夫
主君 六条天皇高倉天皇
氏族 村上源氏
父母 父:源師頼、母:藤原能実の娘
兄弟 師能師教師光、証遍、師綱、証禅、藤原重通室、藤原光隆室、源基平
後白河院安芸(巨勢宗成の娘)
泰光具親後鳥羽院宮内卿、尋恵、澄覚
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源 師光(みなもと の もろみつ)は、平安時代後期の貴族歌人村上源氏大納言源師頼の子。官位正五位下右京権大夫。歌人として名高い後鳥羽院宮内卿の父である。

経歴

父・師頼は大納言まで進み、師光自身も左大臣藤原頼長の猶子となるものの、官途的には不遇で官位は正五位下・右京権大夫に留まる。侍従を務め、小野宮侍従とも呼ばれた[2]。50歳頃出家して生蓮と号した。

人物

和歌に優れるが、九条兼実には「和歌の外他芸無し」と評されている[3]

勅撰歌人として『千載和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に26首が採録されている[4]。家集に『師光集』がある。また、私撰集『花月集』があったとされるが、散逸して現存しない。

系譜

脚注

  1. ^ 現在の大阪市福島区福島付近。
  2. ^ 今鏡』村上の源氏 第七 うたたね
  3. ^ 玉葉
  4. ^ 『勅撰作者部類』
  5. ^ 建長元年(1249年)に83歳で出家している。

出典