大塚喜一郎

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大塚 喜一郎(おおつか きいちろう、1910年明治43年)2月5日 - 1988年昭和63年)8月26日[1])は、日本の弁護士最高裁判所判事学校法人中央大学理事長京都府舞鶴市出身。

概要

三高に入ったが、寮に門限をつけることに反対して、ストライキ実行委員長をしてストライキに入り、警察に拘束されて放校処分となり、1934年(昭和9年)に中央大学法科を卒業[2]1935年(昭和10年)9月に高等文官試験司法科に合格し、同年12月に弁護士登録[2]

会社の顧問などをし、1959年(昭和34年)4月に日弁連事務総長、1961年(昭和36年)3月に法学博士司法研修所教官、1970年(昭和45年)4月に第一東京弁護士会会長に就任[3]1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙京都2区で革新系で立候補したが落選した[4]。弁護士としては、平野事件ユーザーユニオン事件大阪タクシー汚職事件石原産業事件などを扱った[4]

1972年(昭和47年)3月26日学校法人中央大学理事長[5]1973年(昭和48年)2月2日に最高裁判所裁判官に就任[4]。日弁連の推薦ではなく、当時の第2次田中角栄内閣独自の任命だった[2]。大塚は「最高裁や内閣から強く要望され、日弁連幹部と話し合った上で引き受けた」と話した[6]

公務員争議行為の是非が争われた第二次名古屋中郵、国労松山駅事件の威力業務妨害罪などで、1976年5月の大法廷判決に沿って、一二審無罪を破棄して、罰金刑の有罪判決を言い渡した[7]

1980年(昭和55年)2月に定年退官した[8]

その後、1982年(昭和57年)9月に松本正雄の後任として国家公安委員に任命された[8]

脚注

  1. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、239頁。
  2. ^ a b c 野村二郎「最高裁全裁判官」(三省堂)183頁
  3. ^ 野村二郎「最高裁全裁判官」(三省堂)183・184頁
  4. ^ a b c 野村二郎「最高裁全裁判官」(三省堂)184頁
  5. ^ 詳細中央大学
  6. ^ 野村二郎「日本の裁判史を読む事典」(自由国民社)61頁
  7. ^ 野村二郎「最高裁全裁判官」(三省堂)184・185頁
  8. ^ a b 野村二郎「最高裁全裁判官」(三省堂)185頁
先代
金子文六
中央大学理事長
1972年 - 1973年
次代
堂野達也