ルクソール神殿
座標: 北緯25度42分0秒 東経32度38分21秒 / 北緯25.70000度 東経32.63917度
ルクソール神殿 | ||||||||
第1塔門とオベリスク | ||||||||
遺跡 | ||||||||
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種類 | 神殿 (Temple) 複合体 | |||||||
所在地 | エジプト、ルクソール県 ルクソール(東岸) | |||||||
ヒエログリフ名 |
Jpt-rst | |||||||
主祭神 | アメン | |||||||
歴史 | ||||||||
着工 | 第18王朝時代[1] | |||||||
増改築 | ギリシア・ローマ時代まで[1] |
ルクソール神殿(ルクソールしんでん、英語: Luxor Temple)は、エジプトのルクソール(古代のテーベ)東岸にある古代エジプト時代の神殿複合体である。
歴史
もともとカルナック神殿の中心を形成するアメン大神殿の付属神殿として[2]、エジプト第18王朝(紀元前1550-1295年頃[3])ファラオのアメンホテプ3世(紀元前1390-1352年頃[3])によって中心部分が建立された[1]。
神殿の後方には、アメンホテプ3世およびアレクサンドロス3世(紀元前332-323年[3])によって構築された祠堂がある[4][5]。ローマ時代には、神殿およびその周辺は軍の要塞となり、その領域はローマ政府の基地であった[6]。
アメン大神殿とはスフィンクスの参道で結ばれていた。神殿入口となる第1塔門の前には1対のラムセス2世(紀元前1279-1213年頃[3])の坐像、その手前にはオベリスク(高さ25メートル[7])が1本立っている[4]。オベリスクは本来左右2本あったが、右側の1本(高さ22.55メートル[7])は1819年[4]、フランスに贈られてパリに運ばれ、現在コンコルド広場にある[8]。
神殿の構成
- a. アメン神殿 (Temple of Amun) - アメンホテプ3世
- b. アメンホテプ3世の中庭 (Sun court) - 第2中庭
- c. 三柱神の聖舟祠堂 (Barque stop 〈トトメス3世とハトシェプスト〉 and Shrine of the Theban triade 〈ラムセス2世〉)
- d. 列柱廊 (Colonnade) - ツタンカーメンとホルエムヘブ
- e. ラムセス2世の中庭 (Great Court) - 第1中庭
- f. キオスク (Kiosk) - シャバコ(シャバカ、Shabaka)
- A. 至聖所 (Sanctuary of Amun) - アメンホテプ3世
- B. 聖舟祠堂 (Barque shrine) - アメンホテプ3世とアレクサンドロス大王
- C. 「誕生の間」 (“Birth room”) - (中心軸:第2前室)
- D. ローマ時代の内陣 (Roman sanctuary) - 第1前室
- E. 列柱室 (Hypostyl hall)
- F. 第3塔門 (3rd pylon)
- G. 大列柱廊 (Processional colonnade) - アメンホテプ3世
- H. 第2塔門 (2nd pylon)
- I. 第1塔門 (1st pylon) - ラムセス2世
- K. オベリスク (Obelisks) - ラムセス2世
構造物
ルクソール神殿は、エジプト南西部のジェベル・エル=シルシラ (Gebel el-Silsila) 地域からの砂岩で建造された[9]。ジェベル・エル=シルシラ地域からの砂岩は、ヌビア砂岩と呼ばれる[9]。この砂岩は、過去から現在に至る復旧作業ばかりでなく、上エジプトにおける記念建造物の建設のために使用された[9]。
オベリスク
他のエジプト建造物と共通して使われた一般的手法として、象徴的表現すなわち錯視的表現があった[10]。ルクソール神殿の入口に隣接する2本のオベリスク(西側の少し小さい1本は現在パリのコンコルド広場〈Place de la Concorde〉にある)は同じ高さではなかったが、そうであるような錯覚を作り出していた[10]。神殿の配置と一体になり、それらは等しい高さであるように見えるが、錯視的表現を用いてそれが後方の壁のため同じ大きさに見えるよう、相対的な距離を増すように形作った。象徴的に、壁からの高さと距離を強調し、すでにあった従来の通路を整備した視覚的かつ空間的効果であった[10]。
パリのコンコルド広場の中心部には、このルクソール神殿から運んできたオベリスク (Luxor Obelisk) である「クレオパトラの針」が置かれている。
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ルクソール神殿に残るオベリスク(第1塔門入口正面左側)
発掘
中世よりルクソールのイスラム教徒の集団が、丘の南端、神殿およびその周辺に定住していた[11]。ルクソールの町の住民がそれまでルクソール神殿の周りやその上に築いた建物によって、何世紀にもわたる瓦礫が、高さおよそ15メートル(48-50フィート)の築山としてその場所に堆積していた[11]。ルクソール神殿は、ガストン・マスペロ教授が、作業を開始する任務を与えられた後、1884年より発掘が始められていった[11]。その発掘は1960年まで散発的に行われた。長期にわたって、長い年月堆積した廃物が、現代集落の半分をアラビア人の実際の中核部分としていた中庭や列柱廊など現在の神殿の4分の3を埋没させていた。現在においては、13世紀頃のイスラームの聖者エル=ハッジャージ(エル・ハガック)のために建立されたアブ・エル=ハッジャージ (Abu el-Haggag) のモスクが、ラムセス2世の中庭におよんでいる[4][8]。
画像
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スフィンクス参道
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ラムセス2世の中庭
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アメンホテプ3世の中庭
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ローマ時代の壁龕
(塞がれた至聖所に通じる入口)
脚注
- ^ a b c 古代エジプト神殿大百科 (2002)、166頁
- ^ 図説 古代エジプト2 (1998)、28頁
- ^ a b c d 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、599-607頁
- ^ a b c d 大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、583頁
- ^ 古代エジプト神殿大百科 (2002)、170頁
- ^ 古代エジプト神殿大百科 (2002)、167頁
- ^ a b 古代エジプト神殿大百科 (2002)、59頁
- ^ a b 図説 古代エジプト2 (1998)、29頁
- ^ a b c Bernd Fitzner, Kurt Heinrichs, and Dennis La Bouchardiere, "Weathering damage on Pharaonic sandstone monuments in Luxor-Egypt," Building and Environment, 38 (2003): 1089.
- ^ a b c Alexander Badawy, "Illusionism in Egyptian Architecture," Studies in the Ancient Oriental Civilization, 35 (1969): 23.
- ^ a b c Science, "Excavation of the Temple of Luxor," Science, 6, no. 6 (1885): 370.
参考文献
- イアン・ショー&ポール・ニコルソン 著、内田杉彦 訳『大英博物館 古代エジプト百科事典』原書房、1997年。ISBN 4-562-02922-6。
- リチャード・H・ウィルキンソン 著、内田杉彦 訳『古代エジプト神殿大百科』東洋書林、2002年。ISBN 4-88721-580-0。
- 仁田三夫『図説 古代エジプト2:王家の谷と神々の遺産篇』河出書房新社、1998年。ISBN 978-4-309-72578-9。