コンテンツにスキップ

今城 (美濃国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Zazanasawa (会話 | 投稿記録) による 2023年5月18日 (木) 08:02個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

logo
logo
今城
岐阜県
登城口の前にある石碑
登城口の前にある石碑
別名 今村城
城郭構造 山城
築城主 小池刑部藤原之家継
築城年 天文年間(1532年-1555年
主な改修者 小池由紀夫
主な城主 小池刑部藤原之家継
廃城年 天正10年(1582年)以降
遺構 曲輪土塁堀切、碑
指定文化財 未指定[1]
再建造物 公園
位置 北緯35度22分49.3秒 東経137度03分04.0秒 / 北緯35.380361度 東経137.051111度 / 35.380361; 137.051111座標: 北緯35度22分49.3秒 東経137度03分04.0秒 / 北緯35.380361度 東経137.051111度 / 35.380361; 137.051111
地図
今城の位置(岐阜県内)
今城
今城
テンプレートを表示

今城(いまじょう)は現在の岐阜県可児市に存在した日本の城山城)である。

概要

舌状に北へ突き出した丘陵支脈の先端部分にある標高約160メートル、比高差は約20メートルの愛宕山一帯に築かれた。城主の小池家継金山城主である森可成に仕えていた。

歴史

室町時代

天文年間(1532年-1555年)にこの地域の豪族であった小池家継築城した。

戦国時代

天正10年(1582年)に織田信長本能寺の変が起きた後、いままで森氏に従っていた東濃諸国の武将は反抗するようになった。森長可は反抗する武将を武力で鎮圧したが、その際に家継もその対象となった。その後、森長可の立ち退き命令により廃城となった。記録には残っていないが廃城後に改修した痕跡があることから、天正12年(1584年小牧・長久手の戦いの際に森氏が今城を改修したとみられている。

昭和時代

昭和35年(1960年)頃まで山頂部には愛宕神社が鎮座していたが廃社となっていた。

現代

現在は曲輪土塁堀切の遺構は整備されている。豪族城郭なので規模も小さく、山頂部に周囲を土塁に囲まれた本丸があり、虎口が南北に2個所開かれている。

登城口から登る途中に椎茸が栽培されているので基本的にこの道は私有地であり立入禁止になっている。そのため、城に行く際は右脇の農道を通るルートか裏の入口から行くルートしかない。山頂部は一辺が約30メートル位の平地になっている。三の丸に城主である小池家継の墓の小さな五輪塔が数基建っている。二の丸にはかつて小池家継が居住した屋敷が存在したといわれている。

ギャラリー

現地情報

所在地

交通アクセス

鉄道

路線バス

  • 東鉄バス(高速バス 西可児 - 名古屋線)
    • 姫が丘バス停より徒歩約15分
  • さつきバス
    • 西可児・姫治線(今公民館バス停)より徒歩2分
    • 清水ケ丘・西可児線(姫が丘4丁目バス停)より徒歩約15分
    • ※(両路線とも金曜日しか運行していなく、往復3便しか出ていない)

自動車道

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク