輿
輿(こし)とは、人間を乗せ人力で持ち上げて移動するための乗用具。
各地域の輿
日本
日本では天皇や貴族、大名など身分の高い人物が使用する乗り物であった[1]。ただし、江戸時代には日常の移動手段として駕籠を使うようになり、輿は儀式・儀礼の場での乗り物として用いられるようになった。東海道の大井川などでは、川越し人足に担いで渡してもらう輦台(れんだい。蓮台、連台とも)越しという方法があった。現代の日本では交通手段として使われることはほとんどない。
婚礼の際、妻の実家から夫の家へ輿に乗せて運ぶ風習がある。このことから、結婚することを女性の側から見て「輿入れ」または「入輿」(じゅよ)といい、また身分の高い男性やお金持ちの男性のところに嫁入りすることを玉の輿ともいう。祭礼の際に祭神の乗り物として担ぎ、神幸を行うものは「神輿」という。
形態
輿は轅(ながえ)と称する2本以上の棒の上に人が乗る台を載せた乗り物で、轅を肩に担ぎ、または手を下げた腰の位置で持ち、大勢の人間により運ばれる。輿を担ぐ者は力者(りきしゃ)、または輿丁(よちょう)、輿舁(こしかき)とも呼ばれる。輿には大きく分けて輦輿(れんよ)と手輿(たごし)(腰輿〈ようよ〉ともいう)のふたつに分けられる。
輦輿は宝形造の屋根を上に載せたもので、轅を肩で担いで運ぶ。屋根の頭頂部に鳳凰を載せたものは鳳輦(ほうれん)と呼ばれ、天皇しか乗ることが許されなかった。これは後の神輿(みこし)の原型となった。これに対して屋根に葱花を載せた葱華輦(そうかれん)と呼ばれるものがあり、これは天皇が私的外出や神社への行幸の際に用いたほか、皇太子や后妃が用いる場合もあった。
手輿は、輦輿が肩で轅を担ぐのに対して、腰の高さで轅を手に下げて持ち、運んだものである。もとは天皇が内裏の中での移動や、火事などの緊急の移動の際に用いた略式の乗り物であったが、のちに上皇や僧侶、公卿なども牛車に代わって外出に用いるようになった。ただし、それらは鳳輦や天皇所用の手輿とは屋形(屋根を含めた乗用者を囲う部分)の構造や様式を変えて作られている。
一般所用の手輿の代表的なものに、屋形の四方に簾をかけた四方輿(しほうごし)、屋形を牛車に似せた網代輿(あじろごし)、総板製の屋形による板輿(いたごし)、屋形を筵張りにした張輿(はりごし)、屋形を漆塗りにした塗輿(ぬりごし)、また屋形がなく、人が座る台の左右と背後に手摺のみ設けた塵取輿(ちりとりごし)などが存在した。山道などの通行を容易にするため、屋形部分を取り外し床のみで担ぐことがあったが、これを坂輿(さかごし)と称した。
歴史
輿が初めて文献に現れるのは『日本書紀』で初めて見えるのは神武天皇31年の「皇輿」という記述だが当時輿が利用されていたかは疑わしいと考えられている[3]。次に垂仁天皇15年に竹野媛が輿から落ちてしまい亡くなったとあり、この頃には高貴な人の乗用具として使用されていたとみられている[3]。このほか『日本書紀』では天武天皇元年に妃(のちの持統天皇)が輿に乗った記録などがある[3]。
平安時代には天皇の乗用具として奈良時代から用いられていた鳳輦だけでなく葱華輦も用いられるようになり使い分けられた[4]。また、新たな輿の形態である腰輿が出現したのも平安時代とされている[4]。
鎌倉時代には『吾妻鏡』などに鎌倉将軍家の人々が輿を利用したことが記されている[5]。また、室町時代には将軍、鎌倉公方、管領家などごく限られた上級武家のみが使用できる牛車に次ぐ特別の乗用具とされた[6]。
江戸時代は「駕籠の時代」といわれ主要な乗用具は馬と駕籠であった[7]。輿を用いることができる武家は厳格に定められ、御三家と御三卿、7つの松平家、その他加賀前田家など22家を合わせた合計35家のみであった[8]。家格によっては親藩の大名でも輿の使用は認められなかった[8]。
葬儀では棺を輿で担ぎ自宅から墓地まで葬列が続く「野辺送り」が行われていたが、大正時代には都市部で路面電車が普及したことで葬列が線路を塞ぐという問題が起きたことや葬儀場の郊外移転により、霊柩車に取って代わられるようになった[2]。
中国
中国では周や秦の時代には主に馬車や牛車が利用されており、それは漢から晋の時代まで続いた[9]。輿は秦や漢の時代から一部で使用され、唐の時代には高貴な女性の乗り物として兜輿(とうよう)が用いられた[9]。さらに後唐では宰相が参内するのに肩輿が用いられるなど輿は男女の区別なく使用されるようになった[9]。
宋の時代には肩輿は轎子(きょうし)と呼ばれるようになり、明や清の時代には武官は騎馬、県令以上の文官は轎子に乗ることが一般的になった[9]。
欧州
ロンドンでは1623年から椅子駕籠が運行されるようになり、1634年にはダンコム卿がセダンと名付けた[10]。ロンドンにおけるこのセダン椅子と呼ばれる乗り物は徐々に普及し1712年までには約300台に対し免許が行われた[11]。
18世紀にはオーストリアのウィーンで輿の運行が認可されるなどヨーロッパ各地で馬車よりも手軽な乗り物として椅子輿が普及した[9]。ヨーロッパの椅子輿は明治時代に横浜でも導入されていたほか、中国の観光地では今でも乗り物として利用されている[9]。
ギャラリー
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乾隆帝の南巡、輿が16人で担がれている。
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中国・天津、19世紀後半。
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香港、1870年頃。
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現代の中国。
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朝鮮のカマ、1890年頃。
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インドネシア・ジャワ島。
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トルコのタフトゥレワン tahtırevan、1893年。
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古代ローマ時代のレッティガ(レクティカ)。
輿に実際に乗れる観光地
脚注
- ^ 江戸初期の『武家諸法度』(元和令)には、「雑人、恣(ほしいままに)不可乗輿事」(身分の低い者は、許可なく輿に乗ってはいけない事)と記されている。
- ^ a b INC, SANKEI DIGITAL (2017年3月15日). “クラシカル霊柩車絶滅の危機…火葬場入場禁止の自治体も 「走る寺」アジア仏教国では人気”. 産経ニュース. 2021年12月24日閲覧。
- ^ a b c 櫻井芳昭『ものと人間の文化史 輿』法政大学出版局、2011年、2頁。
- ^ a b 櫻井芳昭『ものと人間の文化史 輿』法政大学出版局、2011年、10頁。
- ^ 櫻井芳昭『ものと人間の文化史 輿』法政大学出版局、2011年、20頁。
- ^ 櫻井芳昭『ものと人間の文化史 輿』法政大学出版局、2011年、26頁。
- ^ 櫻井芳昭『ものと人間の文化史 輿』法政大学出版局、2011年、33頁。
- ^ a b 櫻井芳昭『ものと人間の文化史 輿』法政大学出版局、2011年、35頁。
- ^ a b c d e f 櫻井芳昭『ものと人間の文化史 輿』法政大学出版局、2011年、55頁。
- ^ 櫻井芳昭『ものと人間の文化史 輿』法政大学出版局、2011年、60頁。
- ^ 櫻井芳昭『ものと人間の文化史 輿』法政大学出版局、2011年、61頁。
参考文献
- 石村貞吉 『有職故実 下』〈『講談社学術文庫』〉 講談社、1987年 ※「調度・輿車」
- 佐多芳彦 「輿」 『歴史学事典』(第14巻 ものとわざ) 弘文堂、2006年 ISBN 978-4-335-21044-0
- 五島邦治監修 『源氏物語と京都 六條院へ出かけよう』 風俗博物館編集・光村推古書院、2005年 194頁 ISBN 978-4-8381-9931-0