三浦前次
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦7年4月1日(1757年5月18日)[1] |
死没 | 文化14年11月21日(1817年12月28日)[1] |
改名 | 文之助(幼名)、前次 |
墓所 | 東京都府中市紅葉丘の誓願寺 |
官位 | 従五位下備後守[1]、志摩守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 美作勝山藩主 |
氏族 | 三浦氏 |
父母 |
三浦明次、榊原氏 三浦矩次 |
兄弟 |
前次、守次、石川総孝正室、幸姫、 皆川庸清正室 |
妻 | 稲垣昭央娘、本多忠敞娘於歌 |
子 |
誠次、唯次、勝、安部信操室ら 毗次 |
三浦 前次(みうら ちかつぐ[1])は、江戸時代中期から後期にかけての大名。美作国勝山藩3代藩主。美作勝山藩三浦家8代。
生涯
宝暦7年(1757年)、初代藩主三浦明次の二男[2]として生まれる。
安永4年(1775年)12月1日、義兄である先代藩主・矩次の養嗣子となる。安永9年(1780年)に矩次が死去すると、家督を継いだ[1]。
文化13年(1816年)4月29日、家督を矩次の実子で養子の毗次(てるつぐ)に譲って隠居[1]。翌年11月21日に死去した[1]。享年61。
系譜
鳥羽藩主・稲垣昭央の娘を正室に迎えたが離縁[1]。継室として浜田藩主・本多忠敞の娘を迎えた。
『平成新修旧華族家系大成』には実子として1男2女を載せる。
誠次はのちに毗次を継いで第5代藩主となった。このほか、唯次(次男)がある。
美作勝山藩主三浦家を実系で示せば以下のとおり。
三浦明敬 | |||||||||||||||||||
明喬 | 義理 | ||||||||||||||||||
明次1 | 矩次2 | ||||||||||||||||||
前次3 | 毗次4 | ||||||||||||||||||
誠次5 | |||||||||||||||||||
峻次6 | 義次7 | 弘次9 | |||||||||||||||||
朗次8 | 顕次10 | ||||||||||||||||||
- 実線は実子、点線は養子を示す。
- すべての人物を掲載してはおらず、また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
- 数字は美作勝山藩主の代数を示す。
脚注
参考文献
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)