栗原古城
栗原 古城(くりばら こじょう[1]、1882年〈明治15年〉9月17日 - 1969年〈昭和44年〉6月17日[1])は、日本の英文学者・評論家・翻訳家[1]。本名は、栗原 元吉(くりばら もときち)[1]。
経歴
1882年(明治15年)、埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市)に生まれる[2]。東京高等師範学校付属中学校で平田禿木に学び、上田敏とも知遇を得た[3]。第一高等学校在学中の1902年(明治35年)、『明星』12月号にイワン・ツルゲーネフの短編訳「世のをはり」を発表し、以後、同誌に翻訳の発表を続け、当時の日本では知られていなかったオスカー・ワイルドやウィリアム・バトラー・イェイツなどを紹介した[4]。
1903年(明治36年)、東京帝国大学文科大学英文学科に入学し、夏目漱石と上田敏の教えを受ける。1906年(明治39年)、漱石から、末松謙澄著『日本の面影』(原書は末松がイギリスで日本を紹介するために著した『Rising Sun』)の邦訳の仕事を依頼され、森田草平と共に引き受けている[3]。
1906年(明治39年)、東京帝国大学を卒業し、東京毎日新聞に勤務。その頃から『芸苑』や『帝国文学』などに文学評論を発表している。1921年(大正10年)、東京女子大学講師、その後、実践女子専門学校、東洋大学を経て、1952年(昭和27年)、立正大学講師となり、1957年(昭和32年)から教授となった。
人物
漱石宅に出入りし、漱石の『文学評論』について「これこそ日本人の頭脳が生んだ真の特色ある名編で、今後は無論これ以上のものも出るかも知れぬが,今迄のところでは真に空前と称して差支えない傑作である」と絶賛している[5]。
石川啄木とも親しく、明治41年(1908年)、啄木の長編小説『鳥影』を東京毎日新聞に連載できるように斡旋した[3]。
大正時代には英米を中心としたヨーロッパ思想家の紹介に力を注ぎ、トーマス・カーライル、ラルフ・ワルド・エマーソンなどの翻訳で知られる。特にジョン・ラスキンの翻訳では質量ともに当時の第一人者であった[3]。
著書
翻訳
- ラルフ・ワルド・エマーソン『偉人論講話』東亜堂書房、1913年。
- メーテルリンク『死後は如何』玄黄社、1916年。
- カーライル『衣装の哲学』岩波書店、1917年。
- 『ラスキン叢書』全五巻、玄黄社、1917-1918年。
- ミシェル・ド・モンテーニュ『モンテーニュ随筆集』国民文庫刊行会、1927-1928年。
- ジョージ・ギッシング『ヘンリ-ー・ライクロフトの手記』角川書店、1955年。
脚注
参考文献
- 『帝国人事大鑑 昭和7年版』帝国日日通信社、1932年。
- 鏡味国彦『古城栗原元吉の足跡』(文化書房博文社、1993年)。