源実国
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 寛仁4年(1020年) |
死没 | 不詳 |
官位 | 従四位上、蔵人、検非違使、左衛門尉、春宮大進、備前守、土佐守、播磨守、常陸介 |
氏族 | 清和源氏頼光流(摂津源氏) |
父母 | 父:源頼国、母:藤原信理の娘 |
兄弟 | 頼弘、頼資、頼実、実国、頼綱、六条斎院宣旨、国房、頼仲、師光、頼房、頼任、富国、明円、藤原為房室、藤原師実室、藤原顕家室、藤原良綱室、藤原定輔室 |
妻 | 平教盛の娘 |
子 | 行実、国正、行延 |
源 実国(みなもと の さねくに)は、平安時代中期の武士・官人。源頼国の四男。官位は従四位上、蔵人、検非違使、左衛門尉、春宮大進、備前守、土佐守、播磨守、常陸介(『尊卑分脈』)。
略歴
永承3年(1048年)頃、蔵人であった(『春記』同年3月20日条)。和歌も嗜み、翌4年(1049年)11月に催された『内裏歌合』に出席したりもしている[1]。また累代の本拠地である多田庄を継承せず、摂津国内[2]に新たに生島庄を開発したことが知られる。官歴は詳らかでないが、その後は受領となって四位に至り、最終官職が常陸介であったことや承暦4年(1080年)に61歳で出家したことなどが確認されている(『水左記』同年7月28日条[3])。
系譜
子孫は代々摂関家に仕える京武者・中下級貴族の家系として存続したほか僧侶も輩出しており、鎌倉時代初期に朝廷と幕府の交渉にあたった国基とその子観基(寛基)や天台座主となった慈賢などが知られる。また本拠地生島庄は嫡子行実から顕行、雅行へと伝わり、その後も実国の子孫が代々相伝している。