コンテンツにスキップ

赤木志津子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

赤木 志津子(あかぎ しづこ、1900年[1] - 1990年12月8日)は、日本史、特に平安時代文化史を専門とし、お茶の水女子大学都留文科大学などの教員を務めた歴史学者[2][3]

経歴

[編集]

福井県今立郡神明村(後の鯖江市)に生まれた[2]。父は陸軍主計将校、母は御家人の家の娘で、志津子は、夭折した長男に続いて生まれた三姉妹の次女であった[4]。父の転任にともない石川県金沢市へ移り[5]、次いで父の台湾への派遣にともない、母の実家のあった静岡県静岡市へ移った後、1905年以降は父の転任に従って広島県広島市に定住した[6]。このため、出身地は広島市とされることもある[2]

広島市立中島尋常小学校から、広島高等師範学校附属小学校へ編入し、1年から6年までが一緒という複式学級であった三部に学ぶ[7]。広島の女学校[8]を経て、1917年東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)文科に進んだ[9]

1921年に東京女子高等師範学校を卒業し、長野県飯田高等女学校(後の長野県飯田風越高等学校の前身のひとつ)、大阪府立市岡高等女学校(後の大阪府立港高等学校)で教鞭を執ってから[2]1925年9月に青山学院高等女学部へ転任した[2][10]

1929年、開学したばかりの東京文理科大学に進んで[3]中山久四郎三宅米吉島田均一石川林四郎河合栄次郎大類伸今井登志喜らの講義にも触れた[11]。在学中に死去した三宅に代わって着任した松本彦次郎に師事し[3][12]1932年に女性として初めて同大学を卒業した[2]。大学在学中には、とある宮家で家庭教師を務めていた[13]

卒業後は、青山学院に戻り[14]1945年に青山学院女子専門学校(後の青山学院女子短期大学)教授を経て、1949年に大学に昇格したお茶の水女子大学助教授となり、1962年に教授へ昇任し[2]1965年に定年退職した[15]

その後、静岡県に新設されたある私立短期大学の教員となったが、この短大は3年間で廃校となった[16]

1968年都留文科大学教授に転じた[2]

おもな著書

[編集]

単著

[編集]
  • 紫式部とその時代、積善館(輝く御代と偉人叢書)、1944年
  • 平安貴族の生活と文化、講談社、1964年(後にパルトス社が1993年に復刻)
  • 御堂関白 藤原道長 栄華と権勢への執念、秀英出版、1969年
  • 後白河天皇、秋田書店、1974年
  • 栄光の女帝と后、集英社、1977年
  • 女性、近藤出版社(日本史小百科)、1977年
  • 教師の五十年 史学研究女性の回想、雄山閣出版、1985年
  • 摂関時代の諸相、近藤出版社、1988年

共著

[編集]

編纂

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 誕生日について、『20世紀日本人名事典』は3月5日、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は6月5日としている。自伝(赤木, 1985, p.14)によれば、実際の誕生日は6月5日で、父親がそれを3月5日として届け出たため、戸籍上は後者になっているという。
  2. ^ a b c d e f g h "赤木志津子". 20世紀日本人名事典. コトバンクより2024年9月9日閲覧
  3. ^ a b c "赤木志津子". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2024年9月9日閲覧
  4. ^ 赤木,1985,pp.13-16
  5. ^ 赤木,1985,p.16
  6. ^ 赤木,1985,pp.16-20
  7. ^ 赤木,1985,pp.23-33
  8. ^ 赤木は自伝(赤木,1985)でも「良妻賢母と裁縫で固められ服従を強いられ」(p.57)、「嫌いだった」(p.64) として、学校名を伏せている。
  9. ^ 赤木,1985,p.66
  10. ^ 赤木は自伝(赤木,1985)では「青山女学院」(p.134 など)として言及している。
  11. ^ 赤木,1985,pp.155-157
  12. ^ 赤木,1985,pp.159-166
  13. ^ 赤木,1985,pp.149-153
  14. ^ 赤木,1985,pp.166-167
  15. ^ 赤木,1985,p.201
  16. ^ 赤木は自伝(赤木,1985,pp.204-215)で、学校名を伏せて一連の経緯について述べている。

参考文献

[編集]
  • 『教師の五十年 史学研究女性の回想』1985年、214頁。