上板町立神宅小学校
上板町立神宅小学校 | |
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北緯34度08分04秒 東経134度24分55秒 / 北緯34.134444度 東経134.415139度座標: 北緯34度08分04秒 東経134度24分55秒 / 北緯34.134444度 東経134.415139度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 上板町 |
校訓 | 自律・勤勉・協同 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 2学期制 |
学校コード | B136240500019 |
所在地 | 〒771-1302 |
徳島県板野郡上板町神宅字喜来135番地 | |
外部リンク | 公式サイト |
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上板町立神宅小学校(かみいたちょうりつ かんやけしょうがっこう)は、徳島県板野郡上板町神宅字喜来にある公立小学校である。
校訓は「自律」「勤勉」「協同」である。
歴史
1872年(明治5年)8月3日、学制が頒布され、神宅村字北屋敷で三谷真之介が経営する私塾「三谷塾」が「神宅小学校」と改名された[1]。1874年(明治7年)5月神宅村の管理に移り、「公立神宅小学校」と改名した[1]。1879年(明治12年)神宅字宮ノ北の納屋を教場に改造し、北屋敷の旧三谷塾から移転、同時に「公立神宅尋常小学校」と改名した[1]。1885年(明治18年)神宅の森忠三郎の酒蔵を借り上げ教室に改造[2]。1986年(明治19年)学区の改正により、神宅尋常小学校は西分尋常小学校に合併された。しかしこの合併は名目上のものであり、児童は従来通り旧神宅小学校に通い続けた[2]。1887年(明治20年)「村立神宅尋常小学校」が再置され、酒蔵を買い上げて村有とし公式に再開するとともに、郡の管理する西分高等小学校が併設された[2]。1889年(明治22年)、町村制の施行による合併で大山村が発足し「大山村立神宅尋常小学校」と改称した[2]。1909年(明治42年)4月1日、神宅字喜来にあった第二上板高等小学校(前月に廃校)跡地に移転し、同時に高等科が併設されて「板野郡神宅尋常高等小学校」と改称した[3]。
1926年(大正15年)「大山村立神宅尋常高等小学校」と改称、1932年(昭和7年)再び「板野郡神宅尋常高等小学校」に戻した[4]。1936年(昭和11年)神宅喜来に木造校舎を新設し移転した(現在地)[4]。1941年(昭和16年)国民学校令の施行により「板野郡大山村神宅国民学校」と改称した[4]。
1947年(昭和22年)教育基本法、学校教育法により「大山村神宅小学校」と改称[4]、1955年(昭和30年)町村合併による上板町成立により「上板北小学校」と改称、翌1956年、「板野郡上板町神宅小学校」と改称[5]、その後[いつ?]、「上板町立神宅小学校」と改称された。
分校
1946年(昭和21年)「大山畑分校」を開設、当初は大山寺を借用して授業を実施、1948年(昭和23年)大山村神宅字日の谷口に「畑分教室」が完成し移転した[4]。1956年(昭和31年)畑分教室を「畑分校」と改称した[5]。1968年(昭和43年)4月1日、畑分校の生徒が皆無となり閉鎖された[5]。
通学区域
- 神宅町神宅(大東、原東、原西1~3、フルーツタウン神宅、大山町、大山畑、神宮寺1~2、川原田団地、殿宮、小柿、小柿北、西金屋、中北、大南1~3、学園橋、神宅、川西1、あおば学園、神宅団地、西原団地、青木団地)、西分(川西2、川東1~2、滝ノ宮、横関団地、八坂団地、西分団地、池田団地)[6]