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新庄直侯

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新庄 直侯
時代 江戸時代中期
生誕 享保12年(1727年
死没 明和9年10月10日1772年11月4日
改名 助三郎(幼名)、直侯
別名 主計(通称)
戒名 頓悟院殿園山維鏡大居士
墓所 東京都文京区本駒込の吉祥寺
官位 従五位下、越前
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
常陸国麻生藩
氏族 新庄氏
父母 新庄直祐養父新庄直隆
兄弟 直隆直侯直由孝優直令京極高暁、他
養子直規
娘(大久保忠温正室)、娘(大久保忠義室のち新庄直富室)
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新庄 直侯(しんじょう なおよし)は、常陸麻生藩の第10代藩主

生涯

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享保12年(1727年)、第8代主・新庄直祐次男として麻生で生まれる。寛延4年(1751年)3月12日、長兄で第9代藩主である直隆養子となる。宝暦5年(1755年)10月5日、直隆の隠居により家督を継ぎ、12月28日に従五位下・越前守に叙位・任官する。

宝暦6年(1756年)1月、呉服橋門番に任じられる。宝暦9年(1759年)に駿府城番に任じられる。藩政においては風俗粛正質素倹約による藩財政再建を目指した。しかし小藩であるにもかかわらず要職を歴任したため、その支出でかえって財政難を招いた。

明和9年(1772年)10月10日に死去した。享年46。跡を養子の直規(直隆の長男)が継いだ。

系譜

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父母

子女

養子