三枝守昌
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正13年(1585年) |
死没 | 寛永16年閏11月29日(1640年1月22日) |
別名 | 勘解由(通称) |
戒名 | 松嶽院殿喜参宗悦大居士 |
墓所 |
東京都新宿区若葉の西念寺 千葉県南房総市山名の智蔵寺 |
官位 | 従五位下、伊豆守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠→忠長→家光 |
藩 | 駿河駿府藩御附家老→安房三枝藩主 |
氏族 | 三枝氏 |
父母 | 父:三枝昌吉、母:三枝昌光の娘 |
兄弟 | 三枝守吉室、守昌、守秋、遠山彦左衛門室、小菅大学室、海野市助室、守盛、守真、酒依昌次? |
妻 | 正室:諏訪頼水の娘 |
子 | 守全、諏訪頼増、守定、守行、守秀 |
三枝 守昌(さいぐさ もりまさ)は、江戸時代前期の旗本、大名。三枝昌吉の子。三枝昌貞の甥。
生涯
甲斐国巨摩郡に生まれる。徳川秀忠の小姓となり、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの折には、父と共に会津征伐へ従軍。上方への転進後もそのまま秀忠軍として上田城攻めに従い、のちに500石を賜る。
その後、大坂の陣の戦功により3,500石を加増される。元和8年(1622年)、父とともに徳川忠長附きとなるが、父が死去すると、その遺領と合わせて田中城1万石を領し、後に5,000石を加増される。しかし陪臣であったため、この時点では大名とは扱われなかった。
寛永9年(1632年)、忠長の改易に伴い、陸奥棚倉藩主内藤信照に預けられた。寛永13年(1636年)に赦されて幕臣となると、寛永15年2月8日(1638年3月23日)には、安房国安房郡、平群郡、朝夷郡の3郡にまたがって1万石を与えられた。ここに大名として諸侯に列し、安房三枝藩を立藩した。
しかし翌寛永16年(1639年)に55歳で没した。
死後
家督を継いだ嫡男の守全(もりあきら)は遺領1万石のうち、3,000石を次弟の諏訪頼増に分与したため、7,000石を領する旗本となった。子孫は守全・頼増の兄弟両系統ともに、旗本として存続している。