イサイ・シューア
イサイ・シューア(Issaj Schur, Issai Schur, ヘブライ語: יִשַׁי שׁוּר Yiššáy Šūr, ロシア語: Иса́й "Шая" Мо́вшевич Шур, 1875年1月10日 – 1941年1月10日)は、ドイツとイスラエルの地で活動したユダヤ系の数学者。ヘブライ語での発音はイッシャイ・シュール。
生涯
ポーランド(ベラルーシ)のモギリョフ県モギリョフ(マヒリョウ)でユダヤ系ドイツ人の子として生まれる。ベルリンで学び、1901年に博士号を取得。1903年に講師となり、ボン滞在を経て、1919年に教授となる。
現在ベラルーシ領となっているロシア帝国の一部で生まれ、ラトビアでも育ったが、自分自身をユダヤ人というよりはむしろドイツ人と考えていた。このため、1934年に英米の大学に招かれた時もドイツからの出国を拒んだ。
にもかかわらず、1935年、彼はユダヤ人として教職を追われ、1938年には親ナチの数学者ビーベルバッハの煽動によってプロイセン学士院から追放された。このため1939年にパレスチナへ移住し、貧困と屈辱を忍びつつ晩年を送った。彼は66歳の誕生日にテルアヴィヴで死んだ。
フロベニウスに師事し、(最も関係深い対象として)群の表現について取り組んだが組合せ論や数論にも、あるいは理論物理学にまでも手掛けた。今日おそらくシューアの業績として最もよく知られたものは、シューア分解の存在に関することと、群表現論に関するシューアの補題であろう。
リヒャルト・バウアー、ベルンハルト・ノイマン、ハインツ・プリューファー、リヒャルト・ラードなどの弟子がいる。シューアの講義は学生たちに非常に人気であった[1]。1929年、ソヴィエト連邦科学アカデミーの外国人客員として選出された[2]。
出版に際してシューアは、"I. Schur" と "J. Schur" の両方を著者名に用いており(後者は特に Journal für die reine und angewandte Mathematik で用いている)、これはしばしば混乱を招く[3]。
関連項目
注釈
- ^ Biography of Walter Ledermann
- ^ Schur I. - General info at www.ras.ru
- ^ Ledermann, W. (1983). “Issai Schur and his school in Berlin”. Bull. London Math. Soc. 15 (2): 97–106. doi:10.1112/blms/15.2.97.
著作
- Schur, Issai (1968), Grunsky, Helmut, ed., Vorlesungen über Invariantentheorie, Die Grundlehren der mathematischen Wissenschaften, 143, Berlin, New York: Springer-Verlag, MR0229674
- Schur, Issai (1973), Brauer, Alfred; Rohrbach, Hans, eds., Gesammelte Abhandlungen, Berlin, New York: Springer-Verlag, ISBN 978-3-540-05630-0, MR0462891
参考文献
- Curtis, Charles W. (2003), Pioneers of Representation Theory: Frobenius, Burnside, Schur, and Brauer, History of Mathematics, Providence, R.I.: American Mathematical Society, ISBN 978-0-8218-2677-5, MR1715145 Review
- Joseph, Anthony; Melnikov, Anna; Rentschler, Rudolf, eds. (2003), Studies in memory of Issai Schur, Progress in Mathematics, 210, Boston, MA: Birkhäuser Boston, ISBN 978-0-8176-4208-2, MR1985184