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西山春成

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西山 春成
生誕 安在某
文化11年(1814年)3月
美濃国可児郡久々利村
死没 明治28年(1895年4月30日
愛知県可児郡久々利村
国籍 日本の旗 日本
教育 伊藤圭介
職業 千村家侍医
活動期間 天保7年(1836年) -
親戚 西山玄道(養父)
大河内存真(義兄)
伊藤圭介(義兄)
西山謙之助(次男)
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西山 春成(にしやま しゅんせい、文化11年(1814年)3月 - 明治28年(1895年4月30日)は江戸明治時代の医師。旧姓は安在、結城。名は尚賢。美濃国久々利村旗本千村家侍医西山家8代目。西山玄道の養子として廃絶寸前だった同家を継ぎ、子孫に多くの医療従事者を輩出した。

生涯

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文化11年(1814年)3月美濃国可児郡久々利村岐阜県可児市久々利)に千村家臣安在祐景の次男として生まれた[1]西山玄道養女とみと結婚し、西山家を継いだ[2]

天保4年(1833年)名古屋に出て、義兄伊藤圭介西洋医学種痘法を学び、天保7年(1836年)9月久々利村に戻り、千村家侍医を務めた[2]慶応2年(1866年)5月次男西山謙之助に次いで三男多喜三郎と共に平田鉄胤に入門した[2]

明治維新後も久々利村で医業を続け、明治初年岐阜県が行った管内医師の試問では条対第一とされた[1]。明治12年(1879年)7月土岐郡日吉村コレラ被疑患者が発生すると、御嵩避病院に予備委員として召喚され、対応に当たった[3]

晩年は私塾を営み、書画・国風・絃歌・俗曲を嗜み、しばしば宴会で披露した[1]。明治28年(1895年)4月30日病床で狂歌を唱えて息を引き取った[1]

死後

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久々利村の西山療院は春成の長男文雄、文雄の四男忠雄に受け継がれたが[4]昭和6年(1931年)1月忠雄は川辺町に転出したため[5]、昭和7年(1932年)7月岐阜県の補助により久々利村診療所として存続し、隣町兼山町の医師藤掛彰が出張した[4]

昭和31年(1956年)6月2日生家は「西山謙之助出生地」として史跡に指定された[6]

作品

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  • 「義士西山謙之助遺事緒言」 - 明治17年(1884年)栃木県の次男謙之助の戦死地を訪れ、その場に居合わせた石川久三から当時の話を聴取したもの。無窮会所蔵[7]。謙之助(尚義)の最期については幸来橋#伝承・逸話を参照。
  • 「松巌紹貞大姉画像」 - 7代浅井玄安妻の肖像画[8]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e 久々利村 1935, pp. 42–43.
  2. ^ a b c 杉村 2010, pp. 201–203.
  3. ^ 張 2014, pp. 93–90.
  4. ^ a b 久々利村 1935, pp. 329–333.
  5. ^ a b 久々利村 1935, pp. 243–244.
  6. ^ 可児市 2016, p. 141.
  7. ^ 栃木県教育会 1939, p. 71.
  8. ^ 可児市 2010, p. 324.
  9. ^ a b c d e f 吉川 1955, p. 6.
  10. ^ a b 吉川 1955, pp. 60–61.
  11. ^ 久々利村 1935, p. 130.
  12. ^ 久々利村 1935, p. 246.
  13. ^ 久々利村 1935, pp. 300, 309.
  14. ^ 久々利村 1935, pp. 241.
  15. ^ a b c 久々利村 1935, pp. 233–234.
  16. ^ 本田 1925, p. 岐阜県16.

参考文献

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