崇文総目
目録学 |
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『崇文総目』(すうぶんそうもく)は、北宋の勅撰の漢籍目録であり、宋の宮廷の蔵書閣である崇文院の書目である。もと66巻あったといい[1]、書物ごとに解題がつけられていた。後世には書名・著者・巻数のみからなる略本が伝わり、それに他の書物に見える解説を追加した本が行われている。
四部分類に従い、下位分類として45類[2]にわけている。子部の末尾に道書・釈書を含めている。
なお、南宋でも『中興館閣書目』という同様の目録が作られたが、現存していない[3]。
成立
[編集]宋の宮廷で書籍を集めた建物を崇文院と呼んだが、大中祥符8年(1015年)の火災で多くの書物を失った[4]。
景祐元年(1034年)に仁宗は王堯臣・王洙・欧陽脩らに命じて、崇文院の書物を整理させ[4]、唐の『群書四部録』(現存せず)にならって目録を作った。慶暦元年(1041年)に完成し、仁宗は『崇文総目』の名を与えた[5]。
略本と輯逸
[編集]南宋年間に叙釈を除いた全1巻の略本が作られた[6]。のちには略本のみが行われて、本来の形の『崇文総目』は滅んだ。さいわい欧陽脩が書いた各類の叙釈は『欧陽文忠公集』に載せる「崇文総目叙釈」に残っている[7]。ほかに『文献通考』経籍考などに『崇文総目』からの引用が見える。
『四庫全書』は『永楽大典』に載せる略本をもとに諸本の引用を補って12巻とした。その後、銭侗・銭東垣・銭繹・金錫鬯・秦鑑らは天一閣抄本をもとに叙釈を輯佚して注釈を加えた『崇文総目輯釈』5巻を嘉慶4年(1799年)に出版した(『汗筠斎叢書』本)。1936年には陳漢章『崇文総目輯釈補正』4巻が出版された。
評価
[編集]鄭樵は『通志』において『崇文総目』を批判した。すでに分類によって何の書物であるかは明らかであるのに、書物ごとに解題があるのは無用であるとした[8]。『四庫全書総目提要』は『通志』を批判している。
なお、道書と雑史の分類については『通志』は『崇文総目』を高く評価している[9]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 『崇文總目輯釋』 。