朝吹四郎
朝吹 四郎(あさぶき しろう、1915年〈大正4年〉10月26日 - 1988年〈昭和63年〉9月18日)は昭和時代の日本の建築家[1]。日本建築家協会会員[2]。
略歴
1915年(大正4年)10月26日、実業家朝吹常吉・磯子の四男として東京市築地明石町に生まれた[1][2]。慶応義塾幼稚舎で学童期を過ごし、1933年(昭和8年)、慶應義塾普通部を卒業した[2]。その後イギリスにわたってケンブリッジ大学で建築学を学び、1938年(昭和13年)には同大学を卒業して「建築学士」の称号を得た[2]。帰国後の1939年、千代田設計事務所を開設した[3]。1949年(昭和24年)、朝吹設計事務所開設、1951年には朝吹一級建築士事務所を東京に創設して、その代表となった[1][2][3]。1957年、日本建築家協会会員となっている[2]。
駐日フィンランド大使館をはじめ、ベルギー王国、インド、マレーシア、カンボジア、ニュージーランド、ビルマなど8か国の駐日大使館の設計を手がけた[1][2][3]。また、石橋記念館、ブリヂストン芝浦ビル、富士急ハイランド・リゾート、富士急富士宮ビルといった公共建築物の設計、さらに、ブリヂストン三河台社宅、三菱銀行賢島荘など住宅建築の設計を数多く担当した[2]。
1960年(昭和35年)、ベルギーよりシュバリエ・ド・ロルドル・ド・ラ・クーロンヌ勲章を、1976年(昭和41年)にはカンボジアよりオフィシエ・ソワタラ勲章を授与された[2][3]。趣味はテニス・スキーなど[4]。
1988年(昭和63年)9月18日午前8時26分、心不全のため東京都新宿区の慶応病院で死去[2]。享年72[2]。
親族
父は実業家で三越社長[5]や帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長を務めた朝吹常吉[5]。
妻の登茂子は内閣総理大臣も務めた山本権兵衛の孫で、伯爵山本清の三女である[6]。
長女の登志子は東園基文と東園佐和子(明治天皇の孫)の長男東園基政の妻となった。二女の雅子(慶応大学卒)はハリウッド化粧品社長、牛山勝利(牛山清人の子)の妻[7][8]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 武藤安弘(編) 編『趣味別現代人物事典 東日本版』サン・データ・システム、1978年11月。