大江季雄
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選手情報 | |||||||||
フルネーム | おおえ すえお | ||||||||
ラテン文字 | Sueo Ōe | ||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||
競技 | 陸上競技 | ||||||||
種目 | 棒高跳 | ||||||||
生年月日 | 1914年8月2日 | ||||||||
没年月日 | 1941年12月24日(27歳没) | ||||||||
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大江 季雄(おおえ すえお、1914年(大正3年)8月2日 - 1941年(昭和16年)12月24日)は、日本の元陸上競技選手。元棒高跳日本記録保持者。1936年ベルリンオリンピック銅メダリスト。京都府舞鶴市出身。旧制舞鶴中学校(京都府立西舞鶴高等学校)、慶應義塾大学卒業。
来歴
1935年、第6回国際学生陸上(ブダペスト)で4m10をマークし準優勝した。1936年、4m34の日本新記録を樹立。同年、ベルリンオリンピックで4m25の記録で西田修平と2・3位を分け合い、帰国後にお互いのメダルを切断して「銀・銅2色の友情のメダル」を作成した美談は有名であり、西田は大江を銅メダルながら2位の表彰台に立たせたと言う[1]。このエピソードは、道徳の副読本に掲載されたこともある。
1937年、2月の大会で4m35の日本記録を樹立しベルリンの勝者であるアール・メドウスを破って優勝した。1938年、慶應義塾大学を卒業して東洋編物に入社し、日本選手権で4m20を跳んで優勝している。
1939年、大江は陸軍に召集され、歩兵第20連隊第5中隊少尉に進んだ[2]。1941年にフィリピン・ルソン島での戦闘で戦死[3]。陸軍歩兵中尉に特進した[2]。大江の遺品からメダルが見つかり、これをきっかけとして二人がメダルを分け合った事が一般に広く知られるきっかけとなった。
備考
- 大江の母校である西舞鶴高校には大江の銅像がある。
- 京都府舞鶴市立赤レンガ博物館には当時の棒が展示されている。
- 1942年の早慶陸上では、大江の死を悼んで両校の選手が大江の遺影を抱えて行進を行った。
脚注
- ^ 三上孝道『これだけは知っておきたい(11) オリンピックの大常識』株式会社ポプラ社、2004年、70-71ページ、ISBN 4-591-08135-4
- ^ a b 曾根 2020, 9-10頁.
- ^ “「戦没オリンピアン」を追う 広島市立大の曾根名誉教授”. 日本経済新聞. 2020年11月17日閲覧。
参考文献
- 『リンデンの梢ゆれて 大江季雄の青春』(結踏一朗(著)、出版芸術社、1992/1、ISBN 978-4882930396)
- 『知ってるつもり?! 10 心やさしき勝利者たち』(日本テレビ、1993/4、人見絹枝・嘉納治五郎・大江季雄・西田修平・バロン西・ベーブ・ルース・猫田勝敏を所収、ISBN 978-4820393016)
- 曾根幹子「「戦没オリンピアン」をめぐる調査と課題 ―広島県出身選手を事例に―」『広島市公文書館紀要』第32号、2020年、1-13頁。
- 表1 日本人戦没オリンピアン(2020年1月末日現在)(pp.9-10)