フェルディナント・フォン・バイエルン (1699-1738)
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フェルディナント・フォン・バイエルン Ferdinand von Bayern | |
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出生 |
1699年8月5日 スペイン領ネーデルラント、ブリュッセル |
死去 |
1738年12月9日(39歳没) 神聖ローマ帝国 バイエルン選帝侯領、ミュンヘン |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 バイエルン選帝侯領、ミュンヘン、テアティナー教会 |
配偶者 | アンナ・マリア・フォン・デア・プファルツ |
子女 |
マクシミリアン・ヨーゼフ・フランツ クレメンス・フランツ・デ・パウラ テレーゼ・エマヌエーレ |
家名 | ヴィッテルスバッハ家 |
父親 | バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエル |
母親 | テレサ・クネグンダ・ソビエスカ |
役職 | 神聖ローマ皇帝軍元帥(1738年) |
フェルディナント・マリア・インノツェンツ・ヨーゼフ・ミヒャエル・フォン・バイエルン(Ferdinand Maria Innozenz Joseph Michael von Bayern, 1699年8月5日 - 1738年12月9日)は、ドイツのバイエルン選帝侯家の公子で、神聖ローマ皇帝(ハプスブルク帝国)軍の元帥。神聖ローマ皇帝兼バイエルン選帝侯カール7世の弟。
生涯
[編集]バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルと、その2番目の妻でポーランド王ヤン3世ソビエスキの娘であるテレサ・クネグンダ・ソビエスカの間の息子として生まれた。皇帝軍に仕官し、1738年に元帥となるが、その年のうちに死去した。遺骸はミュンヘンのテアティナー教会に葬られた。
フェルディナントは若い頃に恋人だったマリー・アーデルハイト・シュパウル伯爵夫人(Marie Adelheid Fortunata Gräfin Spaur, 1694年 - 1781年)との間に庶子のヨーゼフ・フェルディナント・フォン・ザーレルン伯爵(Joseph Ferdinand von Salern, 1718年 - 1805年)をもうけている。
1719年2月5日にライヒシュタット(現在のチェコ領リベレツ州ザークピ)において、プファルツ=ノイブルク家の公女アンナ・マリア(1693年 - 1751年)と結婚した。アンナ・マリアはプファルツ選帝侯カール3世フィリップの弟フィリップ・ヴィルヘルム・アウグストの娘であった。夫妻は3人の子女をもうけた。
- マクシミリアン・ヨーゼフ・フランツ(1720年 - 1738年)
- クレメンス・フランツ・デ・パウラ(1722年 - 1770年)
- テレーゼ・エマヌエーレ(1723年 - 1743年)
参考文献
[編集]- Johannes Erichsen, Katharina Heinemann (Hrsg.): Die Schlacht von Höchstädt. Brennpunkt Europas 1704. = The battle of Blenheim. Jan Thorbecke, Ostfildern 2004, ISBN 3-7995-0214-9.