鹿島鳴秋
鹿島 鳴秋(かしま めいしゅう、1891年(明治24年)5月9日[1] - 1954年(昭和29年)6月7日[1])は、日本の詩人。東京都江東区白河出身[2]。本名は佐太郎[2]。
略歴[編集]
俳人であった内藤鳴雪の門人で鳴秋と号していた[2]。小学校卒業後に商家で奉公し、その後、貿易会社に勤務し、20歳の頃に童話募集に応募し、入選した[2]。清水かつらと共に雑誌(少年号・少女号)を刊行した[2]。その中で『お山のお猿』『浜千鳥』などを発表した[2]。『浜千鳥』は、1920年(大正8年)6月、鳴秋が友人であった桑山太市朗を訪問し、新潟の柏崎海岸から番神岬を散策した折に制作した[2]。その後、出版社を起業したものの失敗に終わり[2]、満州へ渡り彼の地で新聞社学芸部長となったが、敗戦後日本に引き揚げた[2]。戦後は、学校音楽会の劇のための創作に励んだ[2]。
唱歌となった『浜千鳥』(作曲:弘田龍太郎)の歌碑は、没後の1961年(昭和36年)に建立された[3]。鳴秋の未亡人を招いて、除幕式を行った。歌碑は当初、市内海岸公園内に設置されていたが、現在は、みなとまち海浜公園に移設されている[3]。