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鵜飼一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鵜飼 一郎
うかい いちろう
生年月日 1928年12月28日
出生地 愛知県東春日井郡坂下町(現・春日井市
没年月日 (2006-10-16) 2006年10月16日(77歳没)
出身校 愛知県明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校
所属政党 無所属

当選回数 4回
在任期間 1991年2月7日 - 2006年5月1日
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鵜飼 一郎(うかい いちろう、1928年昭和3年)12月28日[1] - 2006年平成18年)10月16日[1])は、日本政治家愛知県春日井市長(4期)。全国市長会副会長、東海市長会会長などを歴任。

来歴

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愛知県東春日井郡坂下町(現・春日井市)生まれ。愛知県明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)卒業[2]。1944年(昭和19年)、旧坂下町役場に奉職。1958年(昭和33年)1月1日、春日井市は坂下町と高蔵寺町を編入。市長公室長、助役などを歴任。

1990年(平成2年)、春日井市長の鈴木義男が翌年の市長選不出馬を明らかにし、後継として鵜飼が立候補する意向を表明[3]。同年10月、助役を辞任した[4]。この年の5月まで県議会議長を務めていた自民党県議の児島貢[5]も出馬表明。11月26日、児島は自民党を離党[6]

1991年(平成3年)1月23日、児島は県議を辞職[7]。1月27日、市長選挙告示。児島と、日本社会党公明党社会民主連合の推薦を受けた鵜飼の二人が立候補を届け出た。

前年の衆院選丹羽兵助の長男、丹羽孝充は母親とともに選挙違反を起こし、懲役2年、執行猶予5年の判決を受けた。ところが1990年11月2日、兵助がナイフで刺された傷がもとで死去すると、孝充は兵助の後継として次期衆院選に向けて運動を始めた。亡くなった兵助の後援会「二八会」(市内3万人)は春日井市長選に際し「組織は中立、会員は自由に支持」と決定。孝充は児島、鵜飼の両陣営に顔を出した。民社党系の有力労組「春日井地区同盟」は、児島派と鵜飼派に真っ二つに割れた[8]

1991年(平成2年)2月3日、投開票が行われ、鵜飼が児玉を破り初当選した[9]。選挙戦で二派に分かれた「二八会」の会員はそれぞれが「結局は孝充は相手方についた」と述べ、丹羽孝充に非難が集中した[8]

※当日有権者数:人 最終投票率:55.52%(前回比:+11.01pts)

候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持
鵜飼一郎62無所属57,264票56.08%(推薦)日本社会党公明党社会民主連合
児玉貢60無所属44,849票43.92%

2003年(平成15年)、4期目の当選を果たす。この間、愛知県市長会会長・東海市長会会長・全国市長会副会長などを歴任。

2006年(平成18年)1月5日心室細動で倒れ、その後入院を経て一時復帰するも体調が戻らず、5月1日付で辞職[10]。同年10月16日に死去。死後その功績を称えられ、同市の名誉市民に選ばれた。同年11月16日、市葬が執り行われた[11]

著書

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  • 『散歩みち』知書之屋本舗、2006年8月。ISBN 4990219589 

脚注

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  1. ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、242頁。
  2. ^ 鵜飼 一郎(ウカイ・イチロウ) - WhoPlus。
  3. ^ 『中日新聞』1991年1月26日付朝刊、県内版、16面、「春日井市長選あす告示 保守系新人一騎打ちか」。
  4. ^ 『中日新聞』1994年3月6日付朝刊、県内版、16面、「にちよう談話室/『行動と対話』が信条の春日井市長 鵜飼一郎さん(65)」。
  5. ^ 歴代正副議長一覧” (PDF). 愛知県議会. 2021年10月8日閲覧。
  6. ^ 『中日新聞』1990年11月27日付朝刊、県内版、18面、「児島県議が自民離党 春日井市長選出馬で」。
  7. ^ 『中日新聞』1991年1月24日付朝刊、県内版、14面、「市長選出馬の2県議が辞職」。
  8. ^ a b 中西康「春日井市長選 保守分裂の後遺症重く 故丹羽氏後援会・結束維持に陰り 民社党系の組織・県議選で遅れも」 『中日新聞』1991年3月1日付朝刊、東海総合面、19面。
  9. ^ “春日井市長選(1991年2月3日)”. 中日新聞. https://www.chunichi.co.jp/article/5025 2021年10月8日閲覧。 
  10. ^ 中日新聞』2006年4月21日付朝刊、県内版、18面、「春日井市長選 伊藤市議が出馬を表明」。
  11. ^ 『市葬』(平成18年12月1日)|春日井市公式ホームページ