高豆莫

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高豆莫
各種表記
ハングル 고두막
漢字 高豆莫
日本語読み: こうとうばく
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高豆莫(こうとうばく、朝鮮語: 고두막生没年不詳)は、中国東北部民族である夫余族族長である。

『桓檀古記』の記録[編集]

桓檀古記』によると、紀元前120年夫余鴨緑江の北で衛氏朝鮮と戦うが大敗する。紀元前108年衛右渠を伐ち、衛氏朝鮮は亡びる[1]。漢は四郡を設置するために出兵・侵略する。これに抵抗したのが高豆莫であり、高豆莫は夫余を追い出し、追われた夫余は迦葉原へ逃げ、これを迦葉原夫余、あるいは東夫余という[1]

辛酉元年,遣將討右渠,不利。擢高辰守西鴨綠,增强兵力,多設城柵,能備右渠,有功,陞爲高句麗侯。癸亥三年,右渠賊大擧入寇,我軍大敗,海城以北五十里之地,盡爲虜有。…癸酉十三年,漢劉徹寇平那,滅右渠,仍欲置四郡,盛以兵四侵。於是高豆莫汗倡義起兵,所至連破漢寇,…甲午三十四年,十月,東明王高豆莫汗使人來告曰:「我是天帝子,裝欲都之,…」是月,帝憂患成疾而崩,皇弟解夫婁立之。東明王以兵脅之不已,君臣頗難之。國相阿蘭弗奏曰:「通河之濱,迦葉之原有地,土壤膏腴,宜五穀,可都。」遂勸王移都,是謂迦葉原夫餘,或云東夫餘。

辛酉元年(紀元前120年)、将を遣わし右渠を討つが利あらず。高辰を抜擢して西鴨緑江を守らす。兵力を増強し城柵を設け能く右渠に備えるに功有り。陞めて高句麗侯となす。癸亥三年(紀元前118年)、右渠の賊が大挙して入寇す。我軍は大敗し海城以北五十里の地は盡く虜の有するところとなる。…癸酉十三年(紀元前108年)、漢の劉徹(武帝)は平那に侵略して右渠を滅ぼす。仍に四郡を置かんと欲し、盛んに兵を以て四方を侵す。ここに於いて高豆莫は義を唱え兵を起し、至る所漢寇を連破す。…甲午二十年(紀元前87年)、東明王高豆莫汗は人を使わし来りて告げて曰く、我は是れ天帝の子、将にここに都せんと欲す。…是月、帝(高于婁)は患を憂え病気になり而して崩ず。皇弟の解夫婁が立つ。東明王は兵を以て脅すことやまず。君臣は頗るこれを難ず。国相の阿蘭弗が奏して曰く、通河之濱の迦葉之原に土地があり、土壌は膏腴、五穀に宜しい。都とすべし。遂に王に勤め都を移す。是れを迦葉原夫餘という。あるいは東夫餘という[1] — 桓檀古記

脚注[編集]

  1. ^ a b c 佃収『倭人のルーツと渤海沿岸』星雲社〈「古代史の復元」シリーズ〉、1997年12月1日、235頁。ISBN 4795274975 

参考文献[編集]