高屋山上陵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
高屋山上陵(鹿児島県霧島市溝辺町麓)

高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)は、ホオリ天津日高彦火火出見尊)の可愛山陵吾平山上陵とともに神代三山陵の一つ[1]。明治政府により1874年(明治7年)、霧島山山麓(現・鹿児島県霧島市溝辺町麓)を「高屋山上陵」と治定した。現在、宮内庁書陵部が管轄している。

構造[編集]

杉林の中にある楕円形の円墳で、表面は多数の石に覆われている。面積は約53,000平方メートルあり、周囲には石垣が巡らされている。

歴史[編集]

日本書紀』に「葬高屋山上陵」(は返り点)、『古事記』に「御陵者、即在其高千穂山之西也」とあり、『延喜式諸陵式』には「日向高屋山上陵、彦火火出見尊陵、在日向国、無陵戸」とあるが、当時すでに所在が明確に知られていなかったらしい。

近世、所在について種々の検討が行なわれ、江戸時代後期の地誌『三国名勝図会』では内之浦(現在の肝付町)がその所在地とされたが、明治元年に三島通庸らが、明治3年に田中頼庸らが、1873年(明治6年)に樺山資雄がそれぞれ調査し、翌1874年(明治7年)7月10日、当時の政府によって溝辺(現在の霧島市)の陵がホオリの陵と定められ整備された。これは、これは古事記の「高千穂山の西」という記述に基づいて「高千穂山」を高千穂峰とみなし、高千穂峰の西に「鷹大明神社」があったことから、「鷹」を「高屋」の「タカ」と結びつけたものと考えられている[2]

明治5年5月23日に明治天皇が、1907年(明治40年)10月28日に当時の皇太子(大正天皇)の代理として侍従の有馬純文がそれぞれ参拝した。1920年(大正9年)3月30日には当時の皇太子(昭和天皇)が東郷平八郎を伴って参拝している。1940年代に皇紀2600年記念事業の一つとして東側からの参道が整備された。1962年(昭和37年)5月には当時の皇太子(今上天皇)と皇太子妃(美智子)が参拝した。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ 奉祝会、1940。
  2. ^ 『日本歴史地名大系 47 鹿児島県の地名』平凡社、1998年
  • 溝辺町郷土誌編集委員会編 『溝辺町郷土誌』 溝辺町長有馬四郎、1973年
  • 紀元二千六百年鹿児島県奉祝会『神代三山陵に就いて』、紀元二千六百年鹿児島県奉祝会、1940年

座標: 北緯31度49分36.83秒 東経130度41分28.79秒 / 北緯31.8268972度 東経130.6913306度 / 31.8268972; 130.6913306 (高屋山上陵(伝天津日高彦火火出見尊陵))