馮孝慈

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馮 孝慈(ふう こうじ、? - 613年)は、隋代の将軍。

生涯[編集]

馮孝慈は、隋の文帝(楊堅)の代、代州司馬となった。仁寿4年(604年)、漢王楊諒は反乱を起こし、喬鍾葵を派遣して代州へ進攻させた。代州総管李景・司馬の馮孝慈・司法の呂玉は、いずれも勇猛果敢に善戦し、儀同三司侯莫陳乂が謀略をめぐらし、長きにわたって防衛戦を行った。李景は、この3人を十分に信頼し、喬鍾葵を撃退した。

大業3年(607年)、鉄勒が隋の国境を侵した際、煬帝は、馮孝慈を敦煌の外に出兵させて鉄勒を防がせた。出陣は不利であったが、鉄勒が使者を派遣して謝罪して降伏しようとしたため、煬帝は、裴矩を派遣して招安した。

大業9年(613年)11月9日、馮孝慈は、右候衛将軍として清河張金称を討伐したが、敗退して死亡した。

参考文献[編集]