韓賢

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韓 賢(かん けん、? - 537年)は、中国東魏の軍人。は普賢。本貫広寧郡石門県[1][2][3](現在の山西省晋中市寿陽県)。

経歴[編集]

六鎮の乱のとき葛栄に従ったが、葛栄が敗れると并州におもむき、爾朱栄の下で側近となった。永安3年(530年)、爾朱栄が殺害され、爾朱世隆らが建州や石城を攻撃すると、韓賢はその下で戦功を挙げた。爾朱世隆らが長広王元曄を擁立すると、韓賢は鎮遠将軍・屯騎校尉に任じられた。爾朱度律の下で帳内都督となり、汾陽県伯に封じられた[1][4][3]

普泰元年(531年)、前将軍広州刺史となった。高歓が反爾朱氏の兵を起こすと、爾朱度律は韓賢が高歓と知己であったので、使者を送って韓賢を召還しようとした。韓賢は爾朱度律の召還に応じず、ひそかに高歓とよしみを通じた。中興2年(532年)、高歓が洛陽に入ると、爾朱氏の配下の官爵はみな除かれたが、韓賢は高歓と通じていたため、その官爵はもとのままであった。太昌元年(同年)、中軍将軍・光禄大夫に累進し、建州刺史として出向した[1][5][3]

永熙3年(534年)、孝武帝と高歓のあいだが険悪となると、韓賢は高歓の同志とみなされて孝武帝に憎まれ、建州刺史の任を剥奪された[6][7]。汝陽王元暹が孝武帝の命を受けて石済に駐屯すると、韓賢は高歓の命を受けてこれを迎え撃った[8][9]。孝武帝が関中に入ると、韓賢は行荊州事に転じた。東魏が建てられると、洛州刺史となった[1][5][3]。天平4年(537年)10月、西魏の行台の宮景寿や都督の楊白駒らが洛州を攻撃すると、韓賢はこれを討って敗走させた[10]。洛州の韓雄らが西魏と結んで反抗すると、韓賢は慕容紹宗とともに韓雄を撃破した[11][12]。戦後の巡検中に、屍体の間にひそんだ刺客に襲われ、その(スネ)を断たれて死去した[13][5][3]

韓賢はかつて洛陽の白馬寺の経函を破壊したことがあり、それから幾ばくもなく死去したので、世間ではこのために禍を受けたものだと噂された。持節・都督定営安平四州諸軍事・侍中大将軍尚書令司空公定州刺史の位を追贈された[14][5][3]

子の韓裔が後を嗣いだ[14][5][3]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 氣賀澤 2021, p. 249.
  2. ^ 北斉書 1972, p. 247.
  3. ^ a b c d e f g 北史 1974, p. 1905.
  4. ^ 北斉書 1972, pp. 247–248.
  5. ^ a b c d e 北斉書 1972, p. 248.
  6. ^ 氣賀澤 2021, p. 29.
  7. ^ 北斉書 1972, pp. 13–14.
  8. ^ 氣賀澤 2021, p. 35.
  9. ^ 北斉書 1972, p. 17.
  10. ^ 北史 1974, p. 187.
  11. ^ 周書 1971, p. 776.
  12. ^ 北史 1974, p. 2373.
  13. ^ 氣賀澤 2021, pp. 249–250.
  14. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 250.

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『周書』中華書局、1971年。ISBN 7-101-00315-X 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4